天草の歴史!キリスト教が広まった理由とキリシタンたちの苦悩

天草と言う言葉を聞くと思い浮かぶのは、天草四郎・キリシタンの一揆などがあげられます。
日本におけるキリスト教を語る上では、天草は外すことのできない島です。
そこで今回は天草の歴史を知ってもらい、なぜ天草にキリシタンが多いのか、そして何十年も迫害を受けた苦悩を解説します。

天草はどこのあるのか

天草は九州西部・熊本県と鹿児島県にまたがる位置にあり、正式には、天草諸島と呼ばれている大小120からなる島々のことを言います。
回りには有明海・矢代海・東シナ海の天草灘・島原湾に囲まれています。
主要な島は上島・下島で、そこに続くのが、長島・大矢野島・獅子島・御所浦島などがあります。
現在は、本土九州からは天草五橋(天草パークライン)で繋がっています。

天草にキリスト教が広まった理由

天草にキリスト教が伝わったのは、ザビエルが日本上陸の17年後、
1566年にポルトガル出身の修道士、ルイス・デ・アルメダイが下島・志岐城主に、招かれたことがきっかけとなります。
当時の天草は、天草五人衆と言われる「天草氏」「志岐氏」「上津浦氏」「栖本氏」「大野矢氏」らによって統治されていました。
五人衆がキリスト教に宗派を変えたことから教会を建て、トルレス・ヴィレラ・オルガチノらの宣教師も来島させ、宗教会議などをするなどして、多くの領民がキリスト教と関わる機会が増えて、キリシタンとなっていきました。
また、地理的にも天草を含めて九州地方は、朝鮮半島や中国大陸からも近いため、より広まりやすかったとも言われています。

天草の宣教師養成学校への道のり

豊臣秀吉が九州平定後、秀吉の命によりキリシタン大名であった、小西行長が南肥後・天草の領主となる。しかし城築をめぐり天草五人衆との間に、天正天草合戦の戦が勃発するも、小西側の勝利で終わる。
その後天草殿(ドン・ジョアン)は小西行長の配慮によって、旧領地に安堵された。
そして天草殿がコレジョ(大神学校)を誘致するために、アルバンドロ・バリアーノが熱心に働きかけたことで、1951年に天草学林が完成する。
以来日本各地から信仰を学ぶために集まり、志岐にもセミナリヨ(小神学校)やジョアン・ニコラオの指導のもと、画学舎で多くの人たちが学びました。
この頃の天草・長崎は、イエズス会の日本の拠点になっていました。

キリシタン弾圧の始めた理由

織田信長の政策を受け継いで、キリスト教に対して好意的だった豊臣秀吉。せっかくキリスト教が広まりつつある中で、天草だけではなく長崎なども含めて、突然キリシタンの弾圧を始めてしまった理由とは?

九州平定後、博多にいた秀吉のもとに宣教師やキリシタン大名によって、多くの神社・寺が焼かれ仏教徒が迫害を受けていることを知らされる。
また日本人がポルトガル商人に奴隷として海外に売られていることや、長崎がイエズス会領になっていたいたことなどもあり、秀吉は布教責任者であるガスパール・コエリョに、バテレン追放令を発布し、宣教師の国外退去命令と、キリスト教宣教の制限を表明しました。

ただ秀吉は追放令を発布したものの、南蛮貿易に対しては積極的だったため、外国人の往来や個人で布教する事には、さほど厳しくはなかった。
実際に天草五人衆は特におとがめもなく、キリシタン大名としてそのままの地位でいました。

キリシタンたちの一揆

バテレン追放を出されても、特に厳しい状態ではなかったが、江戸時代に入り状況が変わります。江戸時代初期に起きた「島原・天草一揆」です。

なぜ一揆が起きてしまったのか?
もともと天草は耕作地が少なかったので、漁業・海外貿易・出稼ぎで生活をしていました。
始めはキリシタン大名小西行長が領主でしたが、関ヶ原の戦いで地位を退かれたため、キリスト教とはゆかりのない大名が領主になったことから、少しずつキリシタンたちの状況が変わっていきます。

1635年頃から凶作が続き、重税も重なり生活の苦しさから異教徒への信仰が、活発になり、約3万人がキリシタンとなっていたため、行政から目を付けられていました。
そこに島原の南有家村で、キリシタンの儀式が行われていたところに、役人に踏み込まれ人々は、役人を殺してしまったことから、一揆騒動へと進展してしまいました。

同じ頃、天草でも大矢野で一揆の準備が進められていました。一揆の総大将はあの天草四郎。四郎はキリシタンたちを率いて天草の原城に立てこもり、幕府や藩の軍勢と戦うことになります。

キリシタンたちの潜伏苦悩

キリシタンたちの一揆は、幕府の総攻撃によって3万人以上の死者を出し、結果としては敗北したことにより、日本におけるキリシタンは表舞台から消え、生き残った人たちは、隠れて信仰を続けることになりました。(隠れキリシタンと言われています)

一方幕府は一揆後、踏絵・宗教改めを強化して、キリシタン宗徒を摘発した。
また仏教の伝道を強化するために、天草にも寺社を建立しキリシタンの根絶をはかった。
天草の住民も仏教徒へ変える信者もいましたが、一部のキリシタン信者が下島に潜伏していました。

なんとか幕府に見つからないように信仰を続けていました。それでも幕府はキリシタンを見つければ、男女問わず重い厳罰を行い約2世紀にわたり、幕府とキリシタンとの戦いが続きました。

まとめ

長きにわたり迫害を受けてきたキリシタンたちは、1854年の開国をきっかけに宣教師が日本に来るようになり、時も江戸幕府から明治時代と変わったことで、キリストの教えも解禁となったことで、
ようやくキリシタンたちに明るい兆しが見えるようになりました。

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