江戸時代はいつからか?そしてどのようにして江戸幕府の基盤を作ったのか

江戸時代=江戸幕府は、徳川家康によって作られ、265年と長きにわたり政権を握り大平の世を作りました。ですがそこに至るまでには、様々な出来事がありました。今回は江戸時代がどのようにして出来、大平の世の土台を作り上げたのかを解説します。

江戸幕府を作った徳川家康の人物像

江戸時代=江戸幕府を作ったのは、みなさんもご存知徳川家康。戦国の時代に生まれ、今川家の人質でもありながら、なぜ江戸幕府を開く事ができたのでしょうか?
江戸時代の始まりを解説する上では、欠かすことができない人物なので、ちょっと家康の人物像を追ってみましょう。

そもそも徳川家康はどんな人物なのか?

家康は、東は今川、西は織田、北は武田に、挟まれていた三河の国松平家の嫡男として、岡崎城で生まれる。幼少の頃は、実母との生き別れや父の死別、今川と織田の人質と、波瀾に満ちた幼少時代でした。
1560年に今川と織田の戦「桶狭間の戦い」がおき、織田の勝利。衰退した今川の隙を狙い岡崎城に入り、1562年に今川から独立。母方の叔父を仲介にして織田家と同盟を結びます。
同盟後は信長は天下布武目指していたため、幾度も戦がおき同盟相手として信長を助け、じわじわと頭角を現していきました。
そして様々な戦を経験しながら家康は領地を増やし、時には負けた相手の有能な武将を味方につけ、取り込むことで強力な軍事力を持ちました。家康と言えば、狸親父のイメージがあると思いますが、意外にも人の心を掴む要素を持ち合わせていたようです。

秀吉と家康の関係性

家康にとっては、目障りな存在でありました。力を付けつつある家康に対して、信長の家臣との不仲説が多いのにも関わらず、明智光秀が起こしたクーデターで、誰よりも早く兵を動かし主君の仇討ちをしたことで、政治力や発言力を付けていきました。
共に脅威を感じている家康と秀吉は、実質的の権力を得るために小牧・長久手の戦いに挑み、結果秀吉の勝利に終わり、秀吉は天下人への道のりが始まります。
結果家康は秀吉の家臣となりますが、豊臣政権の中では最大の領地を得て、五大老に名を列ね大老筆頭の立場になります。

江戸時代はいつからか?

天下取りの準備?

秀吉が全国平定を終えて次なる目的は海外に向けられました。
ただ通商ではなく大陸征服という危険な野望や無謀な事も増えていき、豊臣政権内で少しずつ亀裂が入り、反発した者や失敗した者に対して、厳しい罰則を与えていました。
それを家康の計らいで、大事にならないようしていました。その行為で家康を頼る武将が増え、存在感を示し人望も上げていきました。
これが家康の純粋な気持ちで助けたのか、あるいは計画的だったのかは分かりませんが、過去の失敗などを考えると計画されたものだったかもしれません。

見えてきた天下取りの道筋

人望・財力・権力をも集めていた家康は、天下取りを目指すためには、絶対に秀吉より長く生きる事。そのために、自分で薬などを作り健康維持は欠かさなかった。
そして秀吉が1598年に死去したことで、一気に家康の天下取りが始まります。五大老筆頭として政権を任されていたので、まずは朝鮮半島からの撤退。秀吉生前時には禁じていた有力大名との婚約させたりと、政権をかき回していきました。
また朝鮮出兵の不満が爆発して石田三成の襲撃事件もおき、この事件の事を収めたのが、秀吉の正室北政所の力を借りて家康が収めた事で、確実に家康の地位は上がりました。

決め手は関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いは、皆さんもご存知と思うので簡単にまとめると、豊臣政権内部の政争が発端です。秀吉と周知の中でもあり、幼い秀頼の後見人前田利家が亡くなった事で、内部分裂が激しくなっていきました。色々な歴史書から見ても、きちんとまとめる人がいなかったためでしょう。
そして1600年に、毛利輝元を大将に石田三成らの西軍と、家康を対象に福島正則らの東軍に分かれて、関ヶ原の戦いが始まりました。結果は家康の勝利に終わり、政権を握ります。
戦後処理を進めながら、関白職を公家に戻すなどをして、三年後、1603年朝廷より宣旨が下り家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き江戸時代の始まりとなります。

江戸幕府の基盤をどのようにして作ったのか?

大御所家康の最後の戦

家康が征夷大将軍となっり、二年後には将軍の座を秀忠に譲ります。この行いをすることで今後将軍職は、徳川が世襲していくと天下に示したものでもあります。
家康が着々と幕府体制を整えていく中で、衰退しかけてるとはいえ、西側では豊臣政権の力は残っていました。その上、成人していく秀頼や毛利家・島津家・上杉家など、家康に不満を抱いてる大名もいます。
そこで家康は江戸幕府を盤石にするためには、自分が生きているうちに、方を付ける選択をします。ただ意味もなく戦を仕掛ける事は様々な問題がおきるので、口実が必要でした。
そこに丁度良く、大仏殿鐘銘事件がおきます。これは秀頼が進めていた、方広寺大仏殿の再建が完成し、その鐘に刻まれた「国家安泰・君臣豊楽」の文字が問題となり、家康は、まるで豊臣家が栄えるように取れると、無理矢理ケチをつけ、この事件を理由に、最後の戦大坂の陣を始めます。そして1615年大阪城を落とし、家康らの勝利で幕を閉じました。

徳川秀忠の基盤作り

1605年に父家康から征夷大将軍を引き継ぎます。但し大御所として家康がいたため二元政治体制になりますが、二つの政治体制では混乱を招きかねないので、秀忠は徳川家直轄領と諸大名の統治を担当し、家康は外様大名との折衝を担当しました。
勿論、大阪の陣では家康と共に参戦し総大将も努め、豊臣家滅亡後、家康と一緒に「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などの制定に尽力しました。
また娘和子を朝廷に入内させて縁を作ったり、尾張・紀州・水戸を御三家として決めたのも秀忠でした。
他にもキリシタンに対してもより厳しく対応しています。キリスト教を広めないために、江戸や京都に十人組という組織を設置して取り締まりを強化しています。また鎖国政策に対しても、将来の布石のために外国船寄港は、長崎・平戸に限定しました。
1623年に家康と同様に、将軍職を嫡男家光に譲ります。秀忠も大御所として二元政治を行いました。

徳川家光の時代で概ねの基盤ができた

三代将軍となった家光。9年程二元政治を行っていましたが、1932年に秀忠が死去した事で、家光自身の政治が始まります。
家光は国の安定を目標にしていたため、まず幕府内の改革・改訂を進めていきました。
現将軍を最高権力者とする幕府機構を確立 するために、老中・若年寄・奉行・大目付の制度を定めたり、武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務付けを加えました。
また対外貿易(第三~五次鎖国令)やキリスト教への強化も強く定めました。
対外貿易は長崎奉行の管轄で行われ、海外の渡航や帰国の禁止をはじめ、中国人は長崎に集約されたり、オランダ商館も出島に移転させました。長崎での貿易管理・統制である鎖国体制を完成させました。
キリシタン問題では、ポルトガル人を長崎・出島に隔離したのち、1637年に島原の乱が起き鎮圧した後、ポルトガル人の断交を決意して、長崎奉行らに追放を命じた。これら一連の江戸幕府による強制政策を、武断政治と言われ概ね基盤作りが完成しました。

まとめ

今回は江戸時代の成り立ちを解説しましたが、いかがでしたでしょうか?
家康が、戦国の世から大平の世を作るために、戦国時代の大名と駆け引きし、江戸時代を作り、秀忠・家光で安定した基盤を作るために、様々な改革を進めました。決して平坦な道のりではありませんが、三代将軍がいたからこそ265年という長い時代が続きました。
ですが全てが安定していた訳ではありません。それはまた別の機会でご紹介するとして、ここまで読んで頂きましてありがとうございます。こういう時代があった事を楽しく読んで頂ければ幸いです。

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