織田信長の政策とは?政治・経済の改革とねらいや影響を簡単解説

織田信長の政策は、戦国時代としては革新的な改革をしています。誰も行ったかとがない「流れの源」を抑える。
具体的には、政治は京都で行われ、経済や物流は大坂の堺で行われていました。
まずこの重要な拠点を抑えることができれば、天下統一の足掛かりなると考え、賛成や反対の意見があろうとも、前に突き進むことを選びました。
では信長の政治・経済・商業・流通の改革はどのようにして進められたのか。改革はねらい通りになったのかを解説します。

織田信長の政策の特徴とは

織田信長の政策の特徴は、流れの源を抑えるということです。政治・経済・商業・流通のすべてに関りがあります。
そこで「中央集権化」の組織を作り、尾張から京都・堺までの道のりを支配、南蛮貿易も独占、関所の廃止や道路整備をすることで、人の流れや物流が良くなり尾張への往来が増えます。
そして経済・商業では「楽市楽座」や「撰銭令」などで、尾張の城下町を繁栄させる政策を打ち出しています。
ここまですると、独裁者のイメージが強く感じますが、すべて共通して言えることは、戦のない平和で豊かな街を作りたいと考えていたと思わります。

織田信長の政治政策とねらいや影響は?

織田信長の政治政策は天下統一のための目的を目指すための政策です。そのために必要である重要視していたのは

  • 中央集権化とは
  • 国内の統一を目指す第一歩
  • 南蛮貿易の重視

この3つを解説します。

中央集権化とは

織田信長の政策の一つで、ピラミッド型を意識した組織作りです。
「トップに織田信長」「次に各諸大名たち」「最後に領民」という形になります。
現代に合わせると、「天皇」「総理大臣・各大臣」「国民」という位置づけになるでしょう。
この中央集権化の発想は、天皇や将軍の地位が弱体していたため、武士がトップになって、政などができるのではと考えられた信長の政策です。
この中央集権化は後に、豊臣秀吉・徳川家康も取り入れてる政策です。

織田信長の政治政策は、首都京都を抑えて天下統一をすることがねらいでした。
将軍や天皇ではなく、武士が政治のトップに立って中央集権化という画期的な発想で、豊臣秀吉や徳川家康に影響を与えています。

国内の統一を目指す第一歩

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織田信長は、国内統一を目指すための逸話があります。
その逸話とは
1568年 将軍足利義昭の奉じて京都に上洛しました。
そのお礼として、副将軍の地位を授けようとしましたが、信長はそれを辞退して、代わりに堺・大津・草津の支配権を認めてもらいます。普通は名誉などが欲しがる武士が多い中、信長の考えは違いました。

信長のねらいは、国内の統一です。そのためには、人流や物流の拠点を抑えて支配すること。重要な拠点を持つことができれば、同時に経済力も強くなります。

南蛮貿易の重視

織田信長が次に重視した政策は、スペイン・ポルトガルなどの南蛮貿易です。
すでに信長の時代では、鉄砲などを戦で使うのは当たり前になっていました。
日本でも武器製造は行っていましたが、産出されないものや製造過程で手に入れることが難しいものがありました。
それは

  • 火薬に必要な数ある材料で硝石は日本では産出することができなかった。
  • 鉄砲の弾丸を製造する過程で、必要な鉛が国内では手に入れるのが難しこと。
  • 鉄砲の製造で必要な真鍮(しんちゅう)も難しかった。

これらのことがあり信長は南蛮貿易を重視するというねらいがありました。
また南蛮貿易の中心は堺で取引されていたので、すでに堺の支配権を得ていたため、輸入を独占することもができたのです。

織田信長の経済・商業の政策とねらいや影響は?

織田信長は尾張の城下町を繁栄させるためと、経済力を持つために行った政策は

  • 楽市楽座令の商業政策
  • 撰銭令(えりぜにれい)の発布
  • 銀山からの経済力を強化する

この3つを解説します。

楽市楽座令の商業政策

安土】安土城2(関連史跡、関連施設編) | 写真倉庫のようなもの

織田信長が打ち出した「楽市楽座」は城下町を繁栄させるために「座」という特権をなくし、新し者が誰でも商売を自由にできる政策です。
当時は特権を持っていた貴族・豪商・寺社などの宗教団体が「座」というグループを作り、税金を納めさせる独占的支配で商いをしていました。
信長は、この「楽市楽座」の特権で恩恵を受けている「座」を壊して、経済の主導権を握りることで税を取らず、誰でも自由に商売ができるようにしました。

ねらいとして特権の恩恵を受けていた人たちの「座」を壊すことができました。
しかし新しく商売をする人たちなどが、「座」に代わって、現代だと「商工組合」のようなものを作り、商いをする人が得をする組織が出来上がってしまいました。

撰銭令(えりぜにれい)の発布

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織田信長の撰銭令は「貨幣流通量の増加」と「悪貨の流入防止」を、同時に行うという革新的なものでした。
当時の貨幣は粗悪で、欠けていたり・割れていたり・文字が消えてしまっているものが多く、貨幣の価値もありませんでした。
また外国通貨・偽銭や貨幣レートの変動もあり、支払いには毎回混乱していました。
この不安定な現場ルールを統一して「固定相場制」を取り入れました。
信長のねらいとして

  • 他国で悪貨とさせる銭も「増銭」の範囲に含めて価値を認め、銭の流通量を増やす
  • 「増銭」は一文とは扱わずレートに応じて価値に差をつけて、悪貨が過剰に流入するのを防ぐ

これらは一定の効果はあったと思われますが、ただ詳しい資料が残されていないので、結果や影響がどのようなものだったのかは、定かではありません。

銀山からの経済力を強化する

織田信長は、当時南蛮貿易をする際に、日本の主力である銀を輸出品としていました。
つまり銀を制する者は火薬も制する事ができると考えていました。
そのために信長は、但馬の生野銀山を支配して、銀山から排出する銀の産出量を増加させ、経済力を強化することができ、同時に軍事力も強化することができました。

銀山からの経済効果のねらいは、上手く成功へと繋がっています。後に毛利家が石見銀山の産質量を増やすことができたのは、信長からの影響を受けていると伝えられています。

織田信長の流通政策とねらいや影響は?

織田信長の流通政策は、人の流れ、物流のスムーズ化を意識したもので、特に力を注いだのは

  • 関所の撤廃
  • 安心・安全・快適な道路整備改革

この2つを解説します。

関所の撤廃

織田信長は、物流をスムーズにするためと、流通のコスト削減をするために関所を撤廃しました。
理由として上げられるのは

  • 通行税が免除されることで、物資の運搬も自由になり、経済的にも潤うようにする
  • 他国の大名たちの資金源を断って弱体化させる

これらの政策は当時としては革新的なものです。
普通であれば通行税という資金源を失いますし、戦になれば他国から簡単に攻め込まれてしまいます。
ですが信長の膨大な資金源と軍事力があったからこそ、攻め込まれることもなく、関所撤廃はねらい通りになりました。

安心・安全・快適な道路整備改革

織田信長は安土城の築城と共に、安土から京への街道や自国の道路整備に力を入れました。
街道を広く整備することで、軍勢の移動の迅速化や、その場所に住む人々と街道を通る人たちが安心・安全・快適に往来できるように、細やかな配慮がされています。

  • 街道には日除け対策として松や柳を植える
  • 飲食ができる休憩所を一定間隔で作る
  • 景観維持を保つためと防犯のために、常に草木をきれいにする
  • 琵琶湖には瀬田の大橋をかけて、橋の真ん中には休憩所を作る

このように街道整備に力を注いだことで、安心して一人旅や夜間の旅ができるようになり、信長の偉大さは広まっていきました。

まとめ
織田信長は革新的な政策で天下統一の為の平和な国を作ろうとしました

織田信長という人物は様々な革新的な政策を打ち出し実行してきました。
しかしねらい通りにいかないこともあります。その失敗と成功を繰り返しても、突き進むことができたのは、信長の勢力と資金源があったからです。
もし利益や権利だけを追い求めていたら、天下統一することもできませんし、平和な国を作ることもできないでしょう。だから信長は一貫して、前に進むことを貫いたのかもしれません。