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徳川家康の人柄は?性格や特徴、天下人に繋がるエピソードを徹底解説

徳川家康と言えば、江戸幕府を開き天下統一を果たした人として有名ですが、実際はどのような人だったのか?良いイメージを持っている人も多いと思います。
しかし近年では、周りからは良く思われていなかったことも取り上げられていることから、徳川家康の人柄・性格・人物像・特徴などのエピソードを解説したいと思います。

徳川家康の人柄は

徳川家康は家臣や他の大名たちなどから、どんな人柄として見られていたのか

  • タヌキおやじと言われていた
  • 大器晩成の苦労人
  • 倹約家として見られていた
  • 諸大名から嫌われていた?

この4つを解説します。

タヌキおやじと言われていた

徳川家康がタヌキおやじと言われていたのは、育った環境に関りがあるようです。
幼いころの両親の離婚、織田家と今川家の人質生活があったから、大人の顔色を窺うようになり、タヌキのように化ける・騙すなどの意味合いから周囲の人たちの様子を見て、上手に世渡りをしてきたから、そう言われたのかもしれません。

大器晩成の苦労人

幼少期は人質生活。元服してからは、戦の時は一番手で敵陣に向かうなど、下っ端な役割をさせられていました。
その後、桶狭間の戦いがきっかけで織田信長の臣下になり、本能寺の変の後は豊臣秀吉に従うように仕向けられたりと、なかなかチャンスに恵まれませんでした。
そして秀吉が病死したことで、辛抱強く待ったかいがあり、やっと61歳で光を見ることができました。まさに大器晩成型の人と言えるでしょう。

倹約家として見られていた

徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉から比べて華やかなイメージはありません。人質生活をおくったことと関りがあるのか、贅沢を好む人ではなかったそうです。
屋敷はきらびやかな装飾もせず、冬でも足袋を履かない、町に買い物に行っても最低限度必要なものだけを買う人でした。ですが伝統工芸や自分の目で見て認めたものには、惜しみなくお金を使ったとのことです。
倹約家なのかもしれませんが、普段は質素でも、いざとなった時にはお金を使う人だったのでしょう

諸大名から嫌われていた?

徳川家康は成功者でありながら、なぜか嫌われていたそうです。
理由としては

  • 家康にとって大名たちとの同盟は出世の道具に過ぎなかった
  • 約束事を簡単に破ってしまう
  • 援軍要請してもこない{戦況を見極めてから行動していた}
  • 恥や外聞も捨ててずぶとく自分だけが生き延びることだけを考えていた。

これらのことから、家康は諸大名から良く思われていなかったことが伺えます。ある意味天下人を意識していた行動にも見えます。

徳川家康の性格は

徳川家康の性格で伝えられているのは

  • 若いころは短期だった
  • 健康オタクだった
  • 新しい物好きだった

この3つを解説します。

忍耐強いが短気な一面もあった

徳川家康と言えば「鳴かぬなら、鳴くまでまとうホトトギス」の名言が有名ですが、この言葉から忍耐強い性格だったと言われています。確かに待ち続けた結果天下人になりましたが、若い頃は短気な性格でもあったと言われています。
特に戦などでイライラすると怒りに任せて行動しています。
具体的なエピソードとして

  • 戦で相手の挑発にのってしまい大敗。
  • 戦況が不利になると、扇子や親指をかじる。
  • 関ヶ原の戦いで、小姓が間違えて家康の陣に入ってしまい、名前を聞いても答えなかったため、小姓の小指を切り落とした。

血気盛んがためにこのような行動に出たのかもしれません。ただ年を追うごとに丸くなり、冷静で物事をしっかり見極めてから行動するようになったようです。

健康オタクだった

徳川家康は、割と割腹の良い体型だったので、健康にはかなり気を付けていたと伝えられています。
熱心に医学書などを読み、知識を身につけ、薬草(漢方薬)を使い、自分で薬を調合して飲むほど医学的知識があり、医者にも負けないぐらいだったと言われています。
ただ、健康に気を配っていたのは、強豪と言われる豊臣秀吉などを含めた大名たちより長生きして、天下を取ることを考えていたとも言われています。

新しい物好きだった

徳川家康は意外にも新しい物が好きだったという記述が残されています。
具体的な物として、鉛筆です。16世紀末にイギリスで作られた鉛筆が、家康に献上されたとの記述があることから、日本人として初めて鉛筆を使たのではないでしょうか。
他にも、メガネやコンパス、ビードロの薬壺や南蛮時計などの、舶来品も所持していたようです。
家康も織田信長と似ていて好奇心旺盛な性格と言えるでしょう。

徳川家康らしさが伺える特徴的なエピソード

さすが徳川家康らしいと言うか、インパクトのある特徴的なエピソードとは

  • 幼少の頃見ていた石合戦
  • 幼少期から負けず嫌いだった
  • 側室が20人以上いた

この3つのエピソードを紹介します。

幼少の頃に見ていた石合戦

No.198833 石合戦という日韓共通の行事があ… - 7011 - 三菱重工業(株) 2019/01/14〜2019/03/23 - 株式掲示板  - Yahoo!ファイナンス掲示板

徳川家康がまだ幼名・竹千代のときに、河原で石合戦をしている子供たちに遭遇しました。
(石合戦・二組に分かれて石を投げたりぶつけたりして競い合う遊び)
一組は150人ほど、相手は倍の300人ほどの人数。それを見ていた家康は一言、「少ない人数の方が勝つと」
結果は少数の150人組が勝ちました。
家臣たちはなぜ結果が分かったのか聞くと、「大人数は優勢だと油断する、少数人数は少ないからみんなで協力し合って必死に勝とうとするから」と淡々として答えた。
すでに子供の頃から洞察力があり、人は団結してこそ力が発揮することが分かっていたようです。

幼少期から負けず嫌いだった

家康は幼少期から負けず嫌いだったとさせるエピソードがあります。
それは今川家に人質として生活していた時のことです。
今川に家臣たちが集まり、その場に竹千代(家康)も居り、家臣たちは竹千代を見るなり「三河の意気地なしの小倅(こせがれ)か」と皆で笑ったそうです。この言葉に怒りを抑えきれず、縁先で小便をしました。
本来人質は、肩身の狭い思いや屈辱を我慢するものですが、竹千代は大胆にも、周囲をあざ笑うかのような行動にでています。
まさに幼少期からプライドや負けず嫌いが伺えるエピソードです。

側室が20人以上いた

徳川家康は、正室は2人、側室が20人以上と言われています。この数字を見るだけでもわかる女性好きだったご様子です。
性格的に気に入ったら即妻にしていました。容姿や身分、年の差は関係なし。なので女中さんやお手伝いさん、未亡人もいましたし、中には人妻もいて強引に別れさせて側室にされた人もいます。
当時は家と家との婚姻が多い中で、家康は自由に恋愛をしていたようです。

徳川家康の死因

徳川家康は75歳で人生を終えています。
死因ですが、天ぷらを食べ過ぎて、食中毒をおこし亡くなったと伝われていますが、書き残された記述では、天ぷらを食べて苦しんだことは記述に残されています。
ですがそれが原因ではなく胃がんで亡くなったのではないかとも言われています。
ただ人生50年と言われている時代に75歳まで生きたことを考えると、天寿を全うしたとも取ることができます。正直確実なことは分かっていません。

まとめ:徳川家康の人柄は苦労や屈辱を味わったことで性格にも影響を与えた。

徳川家康の人柄は、もともと持っていた勝気な性格と苦労と屈辱を味わったことで、強固な人物が出来上がったのかもしれません。
そして、晩年は若い頃のような血気盛ん無くなり、逆に冷静に物事を見極めて行動するようになったことで、天下人になり江戸幕府を作ることができたのでしょう。