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武田信玄の性格が分かるエピソード・逸話8選!生い立ちや経歴も解説

武田信玄と言えば「風林火山」や「甲斐の虎」などが有名ですが、戦国武将としても最強であり、あの徳川家康も織田信長も、なかなか手を出すことができなかったと言われています。
その一方で人を大切にし、真面目で律儀な一面もありました。
そんな最強武将・武田信玄の性格や生い立ち・経歴などのエピソードを解説します。

武田信玄の性格から分かるエピソード・逸話8選

武田信玄の性格から分かる人柄などのエピソードや逸話は

  • 神も仏も信じない性格だった
  • 天才的な素質を持っていた
  • 父との確執
  • 大敗しても家臣を労う
  • 家臣も民も大切にする人だった
  • 武田信玄はなぜ「風林火山」を軍旗にしたのか
  • 天下取りを目指していた?
  • 死んだことは隠せと命じた訳とは

この8つを紹介します。

神も仏も信じない性格だった

武田信玄が神仏を信じなかったのは、「運命・天命・迷信など信じたことで何が変わる」進むべき道は自分で切り開くものだと考えていました。
そのエピソードは
戦国時代は神仏や迷信などといったことを信じるのが当たり前でした。普通なら吉日を選んで戦をしますが、信玄は違います。どんな日であろうとも関係なく相手を攻めて行き、結果勝利しています。


このことから、神仏・迷信などを信じなくても、勝と言う気があれば勝てる、負ければ戦略ミスだったと考える人だったのでしょう。

天才的な素質を持っていた

武田信玄は天才的な素質を持っていた理由として

  • 学問や武術に精通していた
  • ”気”を感じることができた
  • 戦では負けない方法をするための情報網を持っていた
  • 人を見抜く素質があった
  • 自国を豊かにするための術を知っていた

このことから、トップになるために己を磨き、今自分が何をすべきかを感じ取り、自国を豊かにするためにはどうすれば良いのかを考えていたのだと思われます。現代の言葉にすると政治家タイプとも言えるでしょう。

父との確執

武田信玄は父と子の関係に確執がありました。
なぜなら
父・武田信虎は、信玄があまりにも優秀すぎて疎ましく思っていました。そのため弟・武田信繫に愛情を注ぎ、家督を継がせるつもりでいました。
家督相続問題を知っていたのかは分かりませんが、21歳の時にクーデターを起こし父・武田信虎を殺すではなく追放して、家督を継いでいます。

このことから、父親を殺すということはできない優しさの一面もあったようです。それに兄弟仲は悪くなかったので、少しは救われたのではないでしょうか。

大敗しても家臣を労う

武田信玄は生涯の戦でいくつか大敗を経験しています。
その戦のエピソードとして
「武田軍が7000人」対して「敵は2000人」普通に考えれば有利と思われますが、敵が果敢な行動で攻めてきたため、武田軍は不意を突かれ退くことになってしまった。この戦では死者は1000人ほど出してしまいました。
城に戻った信玄は疲れもある中で、家臣を労うために三日三晩踊り続けたそうです。

このように、信玄は大敗しても家臣の心をしっかりと配慮することもできる人でした。

家臣も民も大切にする人だった

信玄は領民や家臣が生活しやすいように、法整備などを細やかに変えていきました。なぜ法整備をする必要があったのかは諸説あります。
具体的なエピソードとしては

  • 度重なる戦で家臣たちは疲弊していたため、武田家の家臣としての不満があった
  • 父・武田重虎の政策や政治面に欠点があったため

そのため信玄は、法整備などをすることで、家臣や領民が生活しやすいように変えていったと言われています。

武田信玄はなぜ「風林火山」を軍旗にしたのか

武田信玄の軍旗は、中国の「孫子」が戦で勝つためのは、どのようにすれば良いのかを書いた兵法書から引用して、風林火山を軍旗にしたようです。
この意味を簡単に説明すると

  • 「風のように速く攻めて」
  • 「林の中で敵に見つからず機会をまち」
  • 「火が燃え上がるように勢いよく攻めて」
  • 「山のようにどっしりと構えて自分の陣営を守る」

このことから、「風林火山」を軍旗にすることで、自分自身には慎重に状況を見極めて攻める。家臣たちには戦に向けての気力を与えて、敵には恐れを感じさせるために使ったと言われています。

天下取りを目指していた?

信玄は天下取りを目指していたのではないかと言う記述が残されています。
その内容は、西(都)へ上る作戦として、「遠州・三河・美濃・尾張」へ軍を進め、強敵が存命の間に天下を取って旗を都に立て、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政を正しく行う、それが信玄の望みである。と言ったそうです。まさに天下取り満々の発言です。

死んだことは隠せと命じた訳とは

武田信玄は死の間際、子である武田勝頼に「自分の死を三年隠せと」命じています。
なぜこのようなことを言ったのかは

  • 息子である勝頼はまだ家臣たちをまとめる力が備わっていないこと
  • 信玄の死で敵国の士気が上がり、自国を攻められることを恐れたこと

この2つが主な要因だと言われています。死んだ後のことも信玄は心配していたもでしょう。ですが実際は三年も待たずに周辺の大名たちは信玄の死を知っていました。隠していたつもりでいたのは、武田側だけでした。

武田信玄の生い立ち

1521年武田信虎の次男として生まれる。幼名は太郎
1523年兄である長男竹松が7歳で亡くなったため事実上嫡子となります。
1525年弟・武田信繁が生まれます。幼名は次郎。この時から少しづつ父との関係が悪い方向に向かいます。
1533年正室(上杉朝興の娘)上杉の方を迎えます。政略結婚ですが、夫婦仲は良かったとのことです。ただ一年後に出産しますが、難産なため妻と子は亡くなっています。
1536年元服。名前を太郎から晴信に改名します。
1536年三条の方(三条公頼の娘)を後妻として迎えます。
1536年初陣。佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めです。冬の戦でなかなか城を落とすことができす、退陣命令が出ました、しかし晴信(信玄)は、逆に油断している敵陣を攻めて初勝利をしました。
15367年~1541年父・武田信虎は、領土拡大のため数多くの戦をしました。その結果、家臣や領民の負担が大きくなり不満の声が続出。
1541年晴信(信玄)は父を追放し、武田家19代目の当主となる

武田信玄の経歴のエピソード

武田信玄の経歴のエピソードとして伝えられているのが

  • 上杉謙信との戦でのエピソード
  • 織田信長も恐れた人物だった
  • 北条の陣をあっさり奪い取った
  • あの徳川家康が大敗したエピソード

この4つを解説します。

上杉謙信との戦でのエピソード

武田信玄と上杉謙信は因縁の中で、川中島で何度も戦をしていますが、なかなか決着が付きませんでした。
そこでどちらが言い出したのは分かっていませんが、相撲の一騎打ちで勝った方が川中島を手にするという、あり得ない方法で決着をつけることとなりました。
結果上杉軍が勝ち、川中島を手にすることができ、負けた武田軍は撤退したそうです。
この戦国時代に相撲で勝敗を決めて、信玄もきちんと約束を守り撤退する律儀な一面もあったようです。

織田信長も恐れた人物だった

武田信玄・織田信長も共に天才と言われる二人ですが、信玄VS信長の直接対決はしていません。さすがの信長も信玄だけには、うかつに手を出すことができないほど強敵のでしょう。
ではなぜ直接対決をしなかったのか

  • 「織田信長」から考えると、信玄は戦上手で戦う前に勝利するための、用意周到な戦略を練ってから戦をするため。
  • 「武田信玄」から考えると、信長は大胆で斬新な発想で行動することから、手の内が読めないため。

このことから考えてみると「信玄・信長」の二人が直接対決をしたら、とんでもない戦になることは間違いありません。家臣を守るため・領民に害が及ばないようにするために、避けたのかもしれません。
ですが最終的には信玄の死後に戦いをいどみ、信長の勝利で終わっています。(長篠の戦)

北条の陣をあっさりと奪い取った

武田信玄が駿河今川攻めのとき、北条氏は今川の援軍として来ていました。ただ時期が一月という寒いときで、信玄と家臣たちは温まるために酒を飲んでいました。
その時信玄は、山の上で陣構えていたことや、寒さもあり北条側は油断しているだろうと考えて攻めたところ、案の定北条側は山麓で暖を取っていて油断していました。そしてあっさりと陣を奪い、武具や馬具も持っていきました。
援軍として来ていたのに、気のゆるみで陣も取られ、戦道具も持っていかれたなんともお粗末なエピソードです。

あの徳川家康が大敗したエピソード

haischlib #三方ヶ原の戦い ar Twitter

武田信玄は徳川家康の勢力を弱めさせたかった。なぜなら家康は戦術が上手かったからです。
そして信玄は家康の浜松城攻めるために出陣します。ただ浜松城に近くなったころ、向きを三方ヶ原に作戦変更します。
徳川軍は信玄の罠にかかり、浜松城を出て三方ヶ原に向かいますが、そこに待っていたのは、武田軍がどっしり陣を構えて待っていました。結果、徳川軍は敗退してしまいます。
この頃の家康はまだ若く、何度も戦を経験している信玄の方が一枚上手だったということでしょう。

甲陽軍艦とは

「甲陽軍鑑」とは、甲斐の国武田家の戦略・戦術・軍法・刑法などが書かれた書物です。
主に武田信虎時代の国内統一から、領土拡大を行った武田信玄を中心としたもので、武田家の家中や家臣たちなどの逸話や事績なども書かれています。
また武田家の礼儀に関する記述なども書かれており、この甲陽軍鑑(こうようぐんかん)をもとに、武田家のことが現代に伝えられています。

武田信玄の死因

武田信玄はもともと肺結核の持病を持っていました。そのため度々吐血することがあったそうです。ですが直接の死因は、肺結核ではなく「ガン」だと考えられています。
「甲陽軍鑑」の資料によれば、「胃がん」か「食道がん」であると記載されていますが、近年「寄生虫」によって高熱を出して亡くなったのではないのかとも言われています。
どちらにしても、はっきりとした死因は明確ではありません。

まとめ:武田信玄のエピソードから人を大切にする性格だったことが分かる

武田信玄はまさに甲斐の虎と言われるほど最強の武将です。家臣や民を大切にし、律儀な一面もあるからこそ、人から信頼させる人物でした。
あと10年遅く生まれていたら、天下を取ることができたのかもしれませんし、無駄な血を流すことを嫌う信玄だけに、戦国時代も少し違った歴史になったかもしれません。