前田利家の性格とは?人物像などのエピソードを交えて徹底解説

「金沢」加賀百万石を一代で築き上げた前田利家。けんかっ早い短気な性格だとも言われていますが、武将としては超一流。そんな前田利家の性格や人物像などのエピソードを解説します。

前田利家の性格とは?

前田利家の性格で伝えられているのが

  • 家では節約家・外では兄貴肌タイプ
  • 律儀な性格だったことから秀吉に利用されてしまった
  • 人の心をつかむことが上手かった
  • 意外にも悪人的な性格をもっていた

この4つを徹底解説します。

家では節約家・外では兄貴肌

前田利家はそろばん好きで、いつもそろばんを持ち歩き、無駄がないかチェックしていたそうです。ある意味「ケチ」とも言えます。
もともと前田家自体が金銭面でのゆとりがなかったことから、自然に節約家になってしまったのかもしれません。
でも一歩外に出れば、人情に厚く裏表のないさっぱりとした性格だったので、兄貴的な部分もあったのかもしれません。

律儀な性格だったことから秀吉に利用されてしまった

信長の死後、後継者争うが勃発。利家は親友とも言える秀吉側に付きました。その後、今で言う重役クラスの地位につきますが、それが秀吉の策略だったのかもしれません。

利家の性格を知ってて利用されたこととは

  • 家康の頭角を抑えるため
  • 優秀な武将であり、律儀な性格なので人望もあることから、家康よりも多くの味方を集められるため
  • 秀吉の死後、豊臣家存続に尽力すると分かっていた

このことから、歴史上伝えられている出来事もあるので、秀吉に上手く利用されたと言えるでしょう。

人の心をつかむことが上手かった

当時、身分の低い武士たちなどは、手柄を立てれば主君から褒賞として自分の性を与えていましたが、利家はそれをしませんでした。なぜなら

  • 手柄を立てたなら、本当の名前を高めることが望ましいから
  • 家臣だからと言って上から目線で人を見るのが嫌だった
  • 家臣などに恩義せがましく物を与えることが不本意に当たるのではと、家臣への心づかいがある人だった
  • 人や様々な出来事などを疑った態度で見るのが嫌だった

これでは間違いなく人望は厚くなるでしょう。

意外にも悪人的な性格をもっていた?

前田利家は悪人的な一面もあったと言われています。
時は戦国時代、利家も善人だけでは生き残れなかったのでしょう。
具体的なエピソードとは

  • 信長の寵愛を受けていた茶坊主(捨阿弥)が好き勝手なことをしていた理由で殺してしまいました。
  • 越前一向一揆で敵を千人はりつけや窯ゆでにしたと記録が残されています。

温厚な人情深い利家も、容赦のない一面があったようです。

前田利家の人物像のエピソード

利家の青年期はかぶき者の常識外れな人物でしたが、武将としては多才で有能でした。
では世間はどう見ていたのか

  • かぶき者だった
  • 槍の名手と言われた男
  • 多才で魅力ある人物として見られていた

この3つを解説します。

かぶき者だっった

(かぶき者=異風を好み、派手な身なりをして、常識外れな行動に走る者たちのこと)
利家の青年期は、うつけ者仲間として身分を越えて信長と親しくしていました。それに付け加え異様な派手な格好をし、けんかっ早い性格と長い槍を持ち歩いていたため、町では利家を見た人たちは避けて通っていたそうです。

槍の名手と言われた男

利家は180cm位ある細身の長身で今で言うイケメンだったそうです。でも戦が起これば長槍(約6.3m)を持ち、敵陣の真っ只中に飛び込んで長槍を振り回し、味方には士気を高め、敵には恐れを抱かせました。
その戦いぶりから、元服直後の名前「前田又左衛門利家」から一部とり「槍の又左」という異名をとりました。

多才で魅力ある人物として見られていた

利家は、有能な武将・そろばん好きで計算が得意、そして自ら蓄えた財産を、中国の書物(漢籍)や茶道などの教養を身につけていきました。
また職を失って浪人などに落ちてしまった旧北条家の家臣に、惜しまずに金銭を貸し、でも取り立てすることはなかったそうです。

妻まつとのエピソード

まつは容姿端麗で賢く、読み書きが得意、その上考え方が男勝りのところがある女性でした。
当時は亭主関白がほとんどでしたが、まつは違います。利家が何か悩んでいる時は背中を押し励まし元気づけたりしました。必要であれば手紙を書いたり、自ら相手の場所に出向いています。前田利家の妻として、できることはなんでもやるという意気込みがあったのかもしれません。

また、利家が亡くなる前にまつは「あなたは多くの人を殺めたので地獄に向かうでしょう。ですからこれを着て下さい」と経帷子を持ってきたそうです。まつは最後まで利家のために気配りをしていたのかもしれません。

織田信長との出会いと関係性

前田利家14歳・織田信長18歳のときに二人は出会います。
信長は「うつけ者」利家は「かぶき者」と言われ、何か相通じるものがあったのか、信長は利家をたいそう可愛がっていたそうです。一説によれば、男色(同性愛者)だったのではないかとも言われています。
そして利家15歳のときに小姓として信長に仕えます。そんな中、信長の寵愛を受けていた捨阿弥を切ってしまったことで織田家追放になります。ですが二年後、勝手に出陣した戦で好成績を残したことで、家臣として復帰します。
結局のところ、近すぎつ遠からずの関係だったのかもしれません。

豊臣秀吉とは親友?

前田利家と豊臣秀吉は同じ尾張出身です。
育つ環境は違いがあれど、同じ時期に信長に仕え、なぜかお互い気が合い、家族ぐるみの付き合いをしていました。また秀吉は子宝に恵まれなかったので、利家とまつの子供、豪姫を養子に迎え入れています。
ただ秀吉は野心家であったため、二人の関係は少しずつ変わっていきます。でも死期を感じた秀吉の頼れる人は、利家だけでした。
若かりし頃は互いに切磋琢磨し、途中はすれ違うこともありましたが、結局二人は親友でもあり、戦友でもあったと言えるでしょう。

前田利家の死因は?

利家の死因ですが、諸説ありはっきりしたことは分かっていません。ただ死の間際までまつと会話をしていることから、意識が混濁する病ではないようです。
亡くなるまでの兆候から、胆のうがんではないかという説もありますが、はっきりとはしていません。ですがかなりの痛みがあり苦しんだのち、62歳で亡くなりました。

まとめ:前田利家は多才で人を思いやる一面と短気な性格をもった人でした

前田利家の若いころはかぶき者と言われ、血気盛んな性格でした。
そして戦国という乱世の中で年を重ねるうちに、己を磨き、人徳を得て有能な武将になっていきます。一代で加賀百万石を築き上げたのですから、行き過ぎた行動もあったかもしれませんが、これほど魅力ある人物はなかなかいないでしょう。