豊臣秀吉はどんな人?伝説やいい話から伺えるエピソードを徹底解説

豊臣秀吉は農民から天下人まで登りつめたのですから、並な人ではないことは確かです。
伝説やいい話もあれば、ちょっと悪い部分もあるかもしれません。そんな人だからこそ様々なエピソードが残されています。
そこで豊臣秀吉とはどのような人だったのか?エピソードを交えて解説します。

豊臣秀吉はどんな人?

豊臣秀吉の性格や人柄などで、どんな人として伝えられているか?

  • 憎まれ口は日常茶飯事(口上手とも言える)
  • 人なっこい性格
  • 人の心を掴むのが上手い
  • 目立ちがり屋
  • 女好き・酒好き・派手好き
  • 褒美や領土を気前よく与える器の大きい人柄でもあった
  • 天下人になってから暴君になっていった

このことから、秀吉は世渡り上手とも言える性格であり、気前が良く意外と器の大きい人だったことが伺えます。
ただ天下人になったことで、欲が大きくなり「むちゃぶり」「自分の思いどうりにする」などわがままな一面が多くなってしまいました。もしかすると歳をとってきたせいかもしれません。

豊臣秀吉のエピソード

豊臣秀吉のエピソードで伝えられているのは

  • 幼少期のエピソード
  • 妻おねとのエピソード
  • 指が6本あった
  • 秀吉の瞳が二つ以上あった

この4つを解説します。

幼少期のエピソード

豊臣秀吉がまだ日吉丸のとき、寺に預けられたときのエピソードです。
普通は学問を学んだり己を磨く場でありますが、秀吉は勉強もせず一日中竹の木で剣術のマネごとをしたり、僧侶たちなどに悪口ばかりを言ったりと、トラブルメーカーになっていました。
これを見かねた僧侶は家に帰すことにしましたが、秀吉は「追い出すなら寺に火をつけ坊主どもを斬り殺す」と当たり散らしました。
そのため僧侶たちは、色々な理由をつけたりモノを与えたりと、機嫌をとってなんとか家に帰しました。
さすが秀吉らしいと言いますか、幼少期から自由奔放な性格だったようです。

妻おねとのエピソード

高台院 - Wikipedia

豊臣秀吉は、妻おねをとても大事にしていましたが、女好きの性格は変わらず、何度も浮気をしています。
我慢の限界を越えたおねは、織田信長に自分の気持ちを書いた手紙を送りました。
それを見た信長は、おねの気持ちを立てながら秀吉に戒めの手紙を出します。さすがの秀吉もビックリしたそうです。
おねも信長なら言うことを聞くと思い手紙で訴えたのかもしれません。

指が6本あった?

豊臣秀吉は指が6本あったと伝えられています。
理由としては、織田信長時代のときに宣教師として来ていた「ルイス・フロイス」が書き残した「日本記」や前田利家回想録に「秀吉の右手には指が6本あった」と記されています。
このことから、2つの書物に残されているということは、間違いなく指は6本あったと考えられます。
ただ、若い頃は指が6本あったことは隠していましたが、天下人になってからは、おおっぴらに見せていたようです。

秀吉は瞳が二つ以上あった?

豊臣秀吉は目の中に瞳が2つ以上「重瞳(ちょうどう)」があると言われています。
まれにこのような瞳を持って生まれる先天性の人や、事故によりできてしまう後天性の人がいるようです。
ただ秀吉が重瞳だったのかは、はっきりと分かっていません。一説には秀吉が天下人としての権威を示すために、瞳が2つ以上あると言ったのかもしれません。

豊臣秀吉の伝説やいい話のエピソードとは?

豊臣秀吉の伝説やいい話のエピソードで伝えられているのは

  • 信長の草履取り
  • 戦での戦い方
  • 四国地方からの大返り
  • 人を思いやる一面もあった

この4つを解説します。

信長の草履取り

豊臣秀吉が織田信長の草履取りをしていたことは有名な話なので知っている人も多いと思います。
改めて説明しますと、
織田家の下僕として働いていた秀吉は、ある雪の降る夜に、信長の草履が雪で冷たくなっていたので、自分のふところに草履を入れて温めていました。
信長がその草履を履いたときに、なぜ草履が温かくなっていたのかを問いただすと、秀吉が「自分が温めておきました」と言い、信長はその心意気を気に入り草履頭にしました。
普通であれば下僕の身分で、信長と話すことなどできません。そんな行動をした秀吉は、出世するためにアピールしたもかもしれません。

戦での戦い

豊臣秀吉の戦の仕方は、武将でありながら極力死者を出さないような戦い方をします。性格的なものだと思いますが、秀吉自身も「人を斬るのは嫌だ」と言っています。事実、水攻めや兵糧攻めなどが多く、味方も敵も犠牲を少なく済むようにしています。そして、敵が早期に降伏させて、生かして自分の味方に付けるような戦いです。この時代に秀吉のような戦い方をする人は珍しいです。

四国地方からの大返り

本能寺 地図

豊臣秀吉は、明智光秀が本能寺の変を起こしたとき、備中高松城の戦いで岡山にいました。
そして信長自害の一報を聞き、全軍2万の兵を引き連れて光秀のいる京へ向かいます。それに約230㌔もあるのに10日で京に戻りました。
そして主君信長の敵討ちを成し遂げましたが、この「中国大返し」は様々な憶測が飛び交っています。もともと知っていていつでも戻れるように体制を整えていたとか、黒幕説などありますが、確実なことは分かっていません。

家臣を思いやる一面もあった

豊臣秀吉が家臣に対して、おもてなしや思いやりの一面があることが言い残されています。
具体的なエピソードは

  • 戦場での出来事で、一時の休息ができたときに、馬まわりの陣屋で、少数人数が、楽しげに酒を組み合わせていた様子を見た秀吉は、怒るかと思いきや「楽しむのも良いが、ほどほどにするようにと」言い残し、追加の酒を用意させたそうです。
  • 秀吉の家臣が暇(退職)願いを出したときに、自らお茶をたてて別れの挨拶をし、「もしよそで上手くいかなければ、いつでも戻ってこい」と言い送り出しました。実際、上手くいかず秀吉の元に仕官の願いを申し入れ、前職の地位で復職をしたそうです。

このことから秀吉は、家臣への思いやりがあることも分かりますし、同時に上手に人を使うことができる人だとも言えます。

豊臣秀吉と徳川家康のエピソード

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豊臣秀吉は織田信長の仇討ちをしたことで、メキメキと頭角を現します。そして最終的には豊臣政権が出来上がります。
大方の大名たちは秀吉の臣下になりますが、徳川家康だけは何通もの書状を出しても、謁見もせず臣下になることも無視続けました。
秀吉はどうしても家康を臣下にしたかったため、実妹朝日姫を離縁させて家康に嫁がせます。それでも家康は動かないので、次は実母を人質として差し出します。そこでやっと家康は動き、謁見し臣下となります。
なぜ秀吉はここまでしたのかは、家康を臣下にしてこそ天下統一ができると考えていたからです。
それだけ家康は人脈や政権に大きな影響を与える人物だったのでしょう。

豊臣秀吉の名言

豊臣秀吉は、身分の低い農民から天下人にまで登りつめました。そして多くの難関を乗り越えたからこそ生まれた名言があります。
その名言とは

  • 「負けると思えば負ける。勝つと思えば勝。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし」
    これは負けそうな状況でも家臣たちには勝つと言い聞かせる。上に立つものは弱音を吐いてはいけない。そんな弱腰の主君では誰も付いてきてはくれませんと言う意味合いです。
  • 「いつも前に出ることが良い。そして戦のときでも先駆けるのだ」
    どんな時でも前に出て、戦のときでも先頭に立つと言う意味で、これはどんな状況にいても、アピールの場と捉えチャンスを逃げしてはいけない。まさに秀吉が、出世街道を走り抜けた生きざまが伺える名言です。

この他にもいくつか名言がありますが、豊臣秀吉という人が、難関を乗り越えてきた人生が垣間見れる名言はこの2つです。

豊臣秀吉の関りのあるゲーム

豊臣秀吉のゲームは、様々なものがあります。
パソコンソフト系のゲームや携帯のアプリを使ったものが主流になっています。
他にもアナログなカード系のボードゲームなどもあります。秀吉のゲームは色々あるので、楽しみながらできるモノをおすすめします。
アプリゲームでは「天下統一 戦国シミュレーション」
PCゲームでは「システムソフト アルファー天下統一V」
アナログなカードゲームでは「戦国武将イケメンエピソード」などがあります。

豊臣秀吉の死因は?

豊臣秀吉の死因は様々な憶測があります。「天ぷらの食べ過ぎ」「消化器系の癌」「脚気」や「加齢による認知症」「梅毒」「老衰」などが取りざされていますが、はっきりとしたことは分かっていません。
ただ、亡くなる5か月前に花見をしていてときに体調を崩し、その後は床に伏した状態だったことから、「老衰説」が有力ではないかと言われています。

まとめ:豊臣秀吉のエピソードや伝説はやっぱり凄かった

豊臣秀吉は、農民から天下人まで登りつめました。
エピソードや伝説からも垣間見える秀吉という人は、策士でもあり、人の心を掴むことが上手なのが分かります。
だから出世街道を進むことができたのかもしれません。
現代でも、生きていく上で見習うことができるかもしれません。それだけ豊臣秀吉とは凄い人言えるでしょう。