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明智光秀の性格とは?人柄・人物像がわかるエピソードを徹底解説

明智光秀と言えば、本能寺で織田信長を攻め自害に追いやった悪人的なイメージがありますが、
でも実際のところは、どうゆう人物だったのかは、色々な形で伝えられています。
そこで今回は、明智光秀の性格や人物などを解説していきたいと思います。

明智光秀の性格

明智光秀の性格として伝えられているのは、

  • 冷静かつ残酷な一面もあった
  • 妻に優しい性格だった
  • 家臣や領民に対しても思いやりがある性格
  • 光秀は徹底とした合理主義者

の4つです。ここから1つずつ詳しく解説していきます。

冷静かつ残酷な一面もあった

光秀は冷静な性格だと伝えられています。この戦国の乱世で生涯の戦で負けたのは4戦だけ。
そこから考えると、かなりの武術が備わっていたことと、少しの油断が原因で勝敗が決まってしまうため、物事を冷静に考えることができた性格だったのでしょう。
それに加え、信長の命により比叡山焼き討ちのときは、戦とはいえかなりの残虐な行為も行い、他にも上の人がやれと言えばどんなに残酷な行為も従順に行ったようです。

妻に優しい性格だった

戦をしているときは坦々と任務をこなす性格だったが、妻には思いやりのある態度で接していたと言われています。
結婚前に妻である照子は疱瘡にかかり顔に跡が残ってしまったのにも関わらず、見た目よりも心根がやさしいなどの理由から正室として向かえいれます。また長良川の戦いで敗北し城から出るとき身重の照子を背負い逃亡したそうです。それほど照子にはとても優しい夫であったことが伺えます。

家臣や領民に対しても思いやりがある性格

光秀は家臣に対して思いやりのある一面があった。
例えば、戦で負傷した家臣に対して功を労う書状とともに、傷の大事も心配していたことや、戦死した家臣を弔うために、西教寺に供養米を寄付している。いずれもこの時代には考えられない行いであった。
また光秀の言葉に「仏や武士の嘘が許されるのだから、年貢をごまかす百姓の嘘など可愛いものだ」と領民に対しても優しい性格であった。

光秀は徹底とした合理主義者

光秀は真面目な性格・伝統を重んじる性格などが伝えられてきていますが、実際はかなりの合理主義者であったからこそ、信長から信頼を受けていたようです。
そんな性格から、当時としては珍しい鉄砲を武器として使いこなしたり、人選も身分など考えず、能力や人柄で判断していたようです。
また光秀は武士でありながらお茶や歌などの文化人的な趣味もあった。戦国の時代でも文化や芸術をたしなむ武将も多く、そこを利用して人付き合いや人脈作りを円滑におこないました。まさに合理的に何事も進めるためには必要だったと言えます。

明智光秀の人柄・人物像のエピソード

光秀は物事を冷静に受け止め、公家の習わしにも精通している教養人のイメージでとらえられていますが、実際はどのような人物だったのか、エピソードを交えて解説します。

意外にも苦労人だった

光秀の人物像は、テレビなどから凛とした育ちの良いイメージでとらえられていますが、苦労していた時期がありました。
苦労の始まりは、
斎藤道三の家臣として一国一城の主であったが、下剋上で道三の息子である斎藤義龍に討たれ、妻子と家臣を連れて仕官先を探す放浪生活をおくることになる。
やっとの思いで見つかった仕官先・朝倉家ですが、光秀のことを雑用係としてしか扱わなく、耐え忍ぶ日々が続きます。
しかし、朝倉家に将軍家の足利義昭が来たことで、光秀の人生が大きく変わるきっかけとなります。

異例のスピード出世

出世街道の始まりは、義昭の側近である細川藤孝と意気投合し、藤孝の後押しもあり、足利義昭の家臣になります。
室町幕府再建を目指し義昭は信長に接近します。その仲介役として光秀が選ばれ、結果、信長に気に入られ、信長の家臣にもなります。
足利家・織田家両者の家臣となった光秀は、公家の仲介役や戦などで目覚ましい活躍をしていき、途中から家臣となったにも関わらず、本能寺の変を起こすまでは、織田家の№2にまで登りつめていました。

ルイス・フロイスから見た光秀の人物像

宣教のため来日していたルイス・フロイスが書き残した記述では、新参者にも関わらず、信長に気に入られていたことが他の家臣たちは不満だった。
自分を偽装するのに抜け目がなく、戦においては謀略が得意で、忍耐力が強く、人を欺くための72の方法を知っていると、吹聴していたと書かれていました。
かなり厳しく見られていましたが、光秀自身が宣教師たちに対して良く思っていなかったこともあるようです。

大黒天像を拾ったエピソード

実は光秀は野望かだったというあるエピソードがあります。
それは大黒天を捨ててしまったことです。家臣たちは「大黒天を拾えば千人の頭になれる」と言ったところ光秀は「私の志はそんな小さな物ではない」言い換えれば「千人の頭ぐらいで終わるつもりはないだから捨てる」とも取れます。
意外にもかなりの野望を心の中に抱いていたのかもしれません。その結果「本能寺の変」を起こすことに繋がっていったのでしょう。

妻が髪を売っていた?

光秀がまだ朝倉家に臣下としていたときのエピソードです。
連歌会(短歌読み)の主催をお任された光秀ですが、当時は生活が苦しくお金の余裕などありません。ですが妻の照子が長い髪を売ってそのお金で皆をもてなし、夫の面目を保ったということです。ここまでできる内助の功は素晴らしいものがあります。

実は京に大邸宅を持っていた?

信長が共を連れて上洛するとき、通常は寺などに泊まるのが当たり前ですが、時に手配が間に合わない場合は、光秀の屋敷に泊まっていたと記述があります。
何人の共を連れていたのかは、はっきりしませんが、本能寺での人数からすると50人以上はいたことになります。それだけの人数を泊めることができる屋敷を京に持っていたことになります。
ただいつからそれだけの邸宅を持てるようになったのかは、光秀自身が解明されていない謎が多いため、事実なのかはわかっていません。

明智光秀と織田信長の関係性は良好だったのか

光秀は信長を本能寺で葬っていますが、そこまで性格的に合わなかったのか?実際はどうだったのかを解説します。

信長とは性格的に合わなかった?

光秀と信長の二人の性格は合わなかった訳ではないようです。光秀は信長に気に入られるように必死に努力をしていました。そして信長の命令であればどんなことも従っています。もし信長と性格が合わなければ、スピード出世はなかったでしょう。

光秀は恩義を・信長は信頼をしていた

光秀は長らく下級武士扱いをされていた中で、信長という有能な戦国大名と出会ったことで、自分の実力を十分に発揮できる場を作ってくれた人だからこそ、信長に対して恩義を感じていました。

信長も光秀に対して、重要なポストを与えていました。なぜなら多彩な家臣たちがいる中で、軍事・政治・様々の調整業務など、高いレベルをこなしていたため、光秀を十分すぎるぐらい信頼をしていました。

明智光秀の乱「本能寺の変」

本能寺の変は、正直謎だらけの事件です。

  • 野望説」天下を狙っていたため。
  • 「怨恨説」信長の機嫌を損ねた。信長が約束を破り光秀の母が殺害された。
  • 「黒幕説」朝廷・足利義昭・豊臣秀吉が後ろで糸を引いていた。

など、色々と意見が分かれています。ですが今のところ、真実は分からないままです。

明智光秀の最後は寂しい結果になってしまった

本能寺の変で信長を討った光秀。主君を討ったのだから当然戦になることは分かっていたため、政治基盤を構築しつつ、味方を集めようと援軍要請をだしました。
しかしいざ戦になったときに、交流のあった武将たちは光秀を見限り、逆に敵対する事になってしまいました。結果、大敗をして生涯を終えることとなりました。

まとめ

明智光秀を語る上で外せないのが、「本能寺の変」です。そして光秀という人が、謎が多い部分もあり、人それぞれ捉え方は様々です。ですが冷静で有能、そして優しい一面もあったと思われます。
ただ真面目すぎたことが損をしてしまったのかもしれません。