アフィリエイト広告を利用しています

明智光秀について・どんな人だったのか?年表・性格・生死までを解説

明智光秀と言えば「本能寺の変」が一番印象的でしょう。
織田信長に仕えるまでは、謎が多く生活もかなり苦しかったようですが、それでも教養があり、作法も心得た知識も豊富な人物です。
織田家の№2になるほどなので、人に恨みをかうこともあったかもしれません。
それでも、頑張り続けたのはなぜなのか?本当の光秀はどんな人なのかも含め、性格や生死なども一緒に解説します。

明智光秀はどんな人なのか

明智光秀は前半生は謎が多いひとですが、頭の回転が速い人物だったようです。
そのため、ねたまれることもシバシバありました。
では、実際光秀はどのようなひとだったのか

  • かなりの教養のある人だった
  • 裏表のある狡猾(こうかつ)な人物
  • 謎の多い人でもあった

これら3つについて解説します。

かなりの教養のある人だった

明智光秀は、教養・連歌が上手であったと言われ、医学知識も持ち合わせていました。
光秀が教養の知識を、身につける影響を受けたのが、室町幕府15代将軍・足利義昭を支えた幕臣・細川藤孝です。
藤孝は連歌や和歌、茶道、囲碁、武芸などの知識が豊富な人物でもあります。
また、光秀の娘の玉が、藤孝の息子の妻であったことから、更なる教養を、身につけたのではないでしょうか。

裏表のある狡猾(こうかつ)な人物

明智光秀は、当時、宣教師として日本を訪れていた「ルイス・フロイス」が残した書物で、築城や建築に長け、計略家で統率力もあり指揮官として優秀だが、裏切りや密会を好み、刑は残酷な行いで、周りからはよそ者扱いをされていた。
そして織田信長の、機嫌を取ることばかりしていたと、記述されています。
確かに、織田家家臣としては「裏の一面」があり、嫌われていたのかもしれませんが、領民に対しては「表の一面」が出ている所もあります。
例えば、生活に困窮している者に対しては、屋敷にかかる税金を免除したり、年貢米未進を破棄する徳政令を出すなど、貧困にあえぐ領民を助けました。

謎の多い人でもあった

明智光秀の詳細な資料(特に前半生)は残されていません。
諸説ありますが、美濃の土岐氏出身で、岐阜県可児市に明智城が、生誕の地と言われています。
この明智城で幼少過ごし、その後美濃を出て諸国行脚し、教養を少しずつ身につけて言ったと考えられます。
また行脚中に、朝倉義景に仕え加賀の一向一揆の際、鉄砲隊を50人以上従え戦果をあげたという説があるようです。
また、室町幕府13代将軍・足利義輝が謀反で殺された時、弟・足利義昭が、朝倉義景の領地であった越前の国に落ち延びています。
同時期に光秀が、越前の国にいた痕跡があることから、義景の家臣だったことは、ありえるかもしれません。

明智光秀の人生年表《生い立ちも含む》

1528年美濃の国に明智城城主明智光綱の長男として生まれる。
1535年父・明智光綱が死去。光秀が家督を継ぐが、まだ幼かったため叔父・明智光安が後見人となる
1546年最初の妻千草と結婚。後に死別。
1554年煕子と結婚。
1556年長良川の戦いで光安が戦死。光秀は明智城を脱出し浪人となる。
1563年娘・玉(後の細川ガラシャ)が生まれる。
1565年朝倉義景に仕官する。
1566年足利義昭の幕臣となる。
1569年織田信長に仕える。
1571年比叡山延暦寺焼き討ち参戦。
1572年琵琶湖の近くに坂本城を築城する。
1576年妻・煕子病にて死去。
1577年丹波攻めをする。
1578年娘・玉が細川忠興と結婚。
1579年丹波平定
1582年「本能寺の変」を起こす。「山崎の戦い」にて戦死。

明智光秀の功績

明智光秀の功績は、織田信長に仕えてから成果を数々出しています。
その中でも有名なのが以下の2つです。

  • 比叡山延暦寺焼き討ちの実行部隊
  • 丹波の国平定

この功績について解説します。

比叡山延暦寺焼き討ちの実行部隊

明智光秀の功績として有名な1つが、「比叡山延暦寺の焼き討ちの実行部隊」です。
光秀が関わった、比叡山延暦寺焼き討ちのきっかけとなったのが、朝倉氏と浅井氏と戦っていた織田信長は、延暦寺が、朝倉・浅井に味方になったことと、僧侶でありながら、禁止されている魚や肉を食べ、遊女と遊ぶなど怠けていたため、焼き討ちの命令を出します。
その先陣として、白羽の矢が立ったのが光秀で、見事役目を果たしました。

丹波の国平定

丹波の国(現・京都府亀岡市)平定が出来たのは、織田信長が京都に上洛するための、重要な場所と言えます。
そのため、光秀に丹波平定を命じ、亀山城・福知山城を築城させ、丹波平定を成し遂げました。
光秀は、丹波領民の心を掴むため、国人衆を家臣として取り立て代官に任命したり、出身・家柄関係なく、能力のあるものを重要なポストに付けたのです。
1581年には、家中軍法が制定され、「一~七条」までは、戦場における軍団の秩序や規律といった決まり、「八~十八条」は、禄高に応じた軍役負担が明記されています。
その他家中法度には、織田家の他の武将達への挨拶の仕方や、京での振る舞いが明記されていました。

明智光秀の最後は

1582年の本能寺の変にて、織田信長を死に追いやったのち、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れたのは、有名な出来事です。
敗走後、勝龍寺城(長岡京市)まで退却し、坂本城に向かう際小栗栖(おぐるす/京都市伏見区)で、落ち武者狩りに襲撃されその後自害したとされています。
しかし、光秀の生死に関しては、様々な憶測があり正確な資料がないため、最後はどうなったのかは、不明なままです。

明智光秀の性格

明智光秀の性格などを簡単にまとめました。

  • 緻密(ちみつ)な戦略をねり戦上手といわれた
  • 人材マネジメントに優れていた
  • 高い教養を持ち、幕府や天皇家、公家とも親交が深い
  • 未来を読む力が備わっていた
  • 光秀の治世は慈愛に満ちており、領民に慕われていた
  • 冷静で冷たい一面もあった

明智光秀の逸話・エピソード

明智光秀の逸話・エピソードは数々ありますが、光秀の人柄や夫婦円満が伺える逸話・エピソードとは

  • なぜスピード出世できたのか
  • 妻・煕子(ひろこ)とのエピソード

この有名な2つを紹介します。

なぜスピード出世できたのか

明智光秀がスピード出世出来たなのは、理由として2つ考えられます。
1つ目は、
光秀は美濃を出た後、足利義昭と出会うまで大変苦労をした経験と、大切な家族を養う強い信念が、光秀の核となって出世の原動力になったこと。
2つ目は、
織田信長の人材活用の巧さがマッチしていたことです。
すでに、戦国大名の朝倉氏、武田氏は同郷の人を家臣に登用していました。
また、信長も有能な人物であれば、どんどん登用した特徴があったこと。
これらの理由から、光秀は信長に気に入られるために、緻密でコツコツと努力し、物を送るなど、様々な事をして、織田政権の№2に登りつめました。

妻・煕子(ひろこ)とのエピソード

明智光秀の仕官先が見つからず、苦しい生活をおくっていたとき、武士の仲間をもてなす際に、資金がないため、煕子は自慢の長い髪を売って、資金調達したと言われています。
また似たような話で、光秀が連歌会を開くための資金のために、髪を売ったともいいます。どちらにせよ、照子は陰で夫を支えていたという、美談と言える逸話です。

明智光秀の戦い{本能寺の変と山崎の戦い}

【本能寺の変】
明智光秀が、京都本能寺にて織田信長を襲撃、自害に追い込んだ事件です。
この本能寺の変が起きたとき、織田信長は「是非に及ばず」という言葉を残しています。
これには二通りの解釈があるようで、1つ目は、有能な光秀が攻めてきたら逃げられないので、自ら死のうという意味と、2つ目は、光秀を今の地位に引き上げたのは、自分であるから、そんな光秀にやられるなら、仕方ないという意味があります。
当時、北陸・関東・中国にそれぞれ優れた大名がおり、近畿地方を守る家臣が光秀しかいませんでした。
また、本能寺の変が起きる前に、連歌会で光秀が、天下を取る句を詠んだとされる記録があることから、見事の戦略で信長を、自害に追い込んだのではないでしょうか。
【山崎の戦い】
本能寺の変後の備中で戦っていた秀吉の軍勢(約4万)が、山崎(京都府大山崎町)で光秀軍(約1万6000)と激突した戦いをし、勝負は短時間で決着がついたそうです。
光秀は本能寺の変あと、近隣の武将に手紙を送り、自分の味方になってくれるように書状を送りました。
しかし信長の死体がなかった事もあり、情報が錯綜して書状の信憑性が低く、思うように味方を集めることができませんでした。
備中で戦っていた秀吉が、ものすごいスピードで近畿に返ってきたため、十分な準備が出来ないまま山崎の戦いが始まり、敗北したと考えられます。

明智光秀に関するQ&A

明智光秀の素朴な疑問などをQ&A形式で解説します。

  • 明智光秀は天海として生きていた?
  • 明智光秀の子孫は
  • 明智光秀の娘・細川ガラシャとは

今回はこの3つです。

明智光秀は天海として生きていた?

明智光秀が実は、山崎の戦いで死んでおらず、名を天海と改め天台宗の僧「南光坊天海」として、生きていたという説があります。
天海という人物は、徳川家康の側近として仕え、江戸の発展に関わっていると言われていいます。
また天海の墓所が、光秀の居城があった坂本にあることなどから、光秀=天海ではないかということです。
しかし、光秀=天海という説を、裏付ける確実な証拠はありません。
そのため、明智光秀が生きていたのかも、現在でもわかってはいないです。

明智光秀の子孫は

明智光秀の血筋は現在でも残ってます。
有名な方で言うと、第79代内閣総理大臣・細川護熙さんです。
光秀の妻・煕子と、同じ漢字が使われているのも、子孫あるあるの面白いところと言えるでしょう。
また、ラジオのDJで活躍されている、クリス・ペプラーさんもそうです。
クリスさんの祖母が「土岐」という苗字で、土岐家は鎌倉時代から続き、光秀はこの土岐家の血筋であり、祖母の墓石には、光秀の家紋・桔梗が入っています。

明智光秀の娘・細川ガラシャとは

細川ガラシャは、明智光秀と妻・煕子との間に三女・玉として生まれます。
【ガラシャは洗礼名です】
その後、細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁ぎ、子供にも恵まれ夫婦円満でした。
しかし光秀が、山崎の戦いで敗れた後、玉(ガラシャ)の母・姉は坂本城で自害し、次第に夫婦仲も悪くなるが、離縁までにはいかず、丹波の国で隠棲を余儀なくされます。
その後、玉(ガラシャ)は、キリシタンになり生活していきますが、関ヶ原の戦いで、西軍の石田三成に人質として捕らえられ、自害してしまいます。

まとめ>明智光秀は生死不明の謎の多い人でした

明智光秀は生死不明ではありますが、生きていたとしても、かなり苦労したと思われます。
せっかくの限られたチャンスを掴んで、織田家中の№2にまで昇りつめました。
ただ、織田信長を討ってしまったことで、積み重ねてきた事が、全てダメになってしまいましたが、自分の正義を貫く合理的な思考を持った人物と言えるでしょう。