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伊達政宗エピソード集【厳選12選】歴史・功績・人物像を解説

 奥州の覇者・伊達政宗は、「独眼竜」の名に恥じぬ、輝かしい功績をのこした彼は名将でありながら、数々のおもしろエピソードをつくった迷将でもありました。
今も昔も衆人を魅了してやまない「戦国のエンターテイナー」の生涯を、12のエピソードとともに、功績や人物像を織り交ぜて解説します。

伊達政宗の逸話・エピソード12選

伊達政宗の逸話・エピソードは、数多く残されていますが、その中でも有名な12個の逸話・エピソードを紹介します。

①片倉小十郎との絆

伊達政宗の家臣といえば「片倉小十郎景綱」が有名です。
小十郎はもともと政宗の父・輝宗の小姓で、まだ幼い政宗の補佐に抜擢されました。
それ以来、小十郎は知恵袋として政宗をサポートし、切腹覚悟で政宗の右目の膿をえぐりとって、コンプレックスを吹き飛ばしてやったり、合戦で政宗のフリをして、敵を引きつけ窮地を救ったりと、二人の絆の逸話は多々あります。
もし片倉小十郎がいなければ、我々の知る伊達政宗はいなかったかもしれません。

②お茶を学ぶために千利休の弟子になる

伊達政宗が、直接千利休の弟子になることはなかったようです。
弟子ではなく、利休と関わりのある古田重然や小堀遠州といった、茶人との交流がありました。
古田重然は「利休七哲」(千利休の高弟)にも数えられるほどの名人、小堀遠州は重然の弟子で「遠州流茶道」の開祖です。
とくに重然とは、彼がまだ無名だったころからの付き合いでした。
政宗は、茶人と交流があっただけでなく「茶の湯とはふだんくつろいでいるところを改めるものである」という持論をもつほどに、茶道に造詣が深かったといいます。

③豊臣秀吉の初対面に白装束なぜか?

小田原征伐の折、伊達政宗は豊臣秀吉の怒りをかわすべく白装束で対面します。
なぜこのような状況になったのかは、政宗が奥州を統一してすぐの話で、秀吉は、天下統一まであと一歩のところまで来ていて、小田原城を本拠とする北条氏に対し、討伐の兵を挙げました。
政宗のもとには豊臣方から、参陣依頼が届いていましたが、伊達家と北条家は長らく同盟関係にある間柄であったため、悩んだ挙句、小田原征伐も佳境に入ったころ、遅れて秀吉のもとに現れます。
秀吉は「一介の田舎侍」の遅参に激怒し、政宗は文字通り首が飛びかねない状態だったのですが、政宗は動じないばかりか、白装束(=死装束)で、秀吉の前に現れるというパフォーマンスをやってのけます。
その突飛な行動にすっかり気を良くした秀吉は、政宗の処刑を取りやめたのです。

④秀吉が飼っていた一匹の猿との逸話

これは、伊達政宗と豊臣秀吉の「化かし合い」ともいえる逸話があって、秀吉は、なんとも悪趣味な楽しみがありました。
それは、登城する人に凶暴な猿をけしかけては、驚く様子を見るというもので、名だたる大名たちが、いたずらの餌食になってなっていました。
しかし伊達政宗には、一筋縄ではいかなかったのです。
政宗は、事前に秀吉のいたずらについて知ると、飼育係を買収して猿を借り受け、怖気づくまで鞭で叩きまくったのです。
登城当日、何食わぬ顔で現れた政宗を前に猿は、驚かすどころか怯えてしまい、政宗に一本とられたことを悟った秀吉は、大いに笑ったといいます。

⑤手紙を書く事が好きであった

伊達政宗は「筆まめ」だったことで有名です。
当時、大名が自ら筆を執るのは珍しいことであり、普通は、字の上手い家臣を「祐筆(ゆうひつ)」として抜擢し、代筆させていたため、大名の自筆の手紙はあまり残っていません。
しかし政宗はもっぱら自筆を好み、プライベートな手紙も多数残っています。
その手紙の数は、1,000通を数えるともいわれ、なかには「お酒の失敗を娘に謝る」手紙などもあり、政宗の人柄が伺えます。
なぜ自筆にこだわったのか、定かではありませんが、書の腕前もピカイチだったので、自慢したかったのではないかという説もあるようです。

⑥お酒の失敗談も天下一品

伊達政宗は酒癖が悪いことで有名でした。
それも酔った勢いで家来を脇差で殴ったり、場を盛り上げようとして飲み過ぎたりしたのはまだ可愛い方ですが、自分の身が危うい失敗談もあったようです。
例えば、
●能見物のときに、酒を飲みすぎて酔っぱらい、同席していた元関白の烏帽子をいじくって場を凍らせた
●二代将軍・徳川秀忠との約束を二日酔いでドタキャンした
●三代将軍・徳川家光との酒宴で泥酔して寝た
など、貴人の前で粗相することも、しばしばあったことが伝え残されています。
「独眼竜」もお酒を前にすると「ダメ親父」に変貌してしまうようです。

⑦戦国時代の料理男子と言われている

伊達政宗は客人に自ら料理を振る舞うほどの「料理好き」としても知られています。
はじまりは「兵糧」の研究で、いつしか個室に籠って(こもって)献立を考えるのが日課になり、江戸の藩邸で大名や将軍を、もてなしたこともありました。
とくに徳川秀忠を招いた際には、毒見を求めた秀忠の家来に政宗は激怒し、
「10年前であれば将軍と戦う用意もあったが、そのときでさえ毒殺などという手は使わぬ!」と、言ったようなのです。
「10年前はまだ野心があった」という爆弾発言ですが、同時に「料理は戦いの道具ではない」という一種のプライドを感じさせます。
茶の湯といい料理といい、政宗には独自の哲学をもつほど道を究める求道者気質なところがあったのかもしれません。

⑧政宗の和歌は秀吉にも称賛された

伊達政宗は、和歌や漢詩も非常に上手かったそうで、とくに豊臣秀吉が主催した「吉野の花見」では、その才能を遺憾なく発揮しています。
1594年に秀吉は、現在の奈良県にある桜の名所「吉野山」で花見大会を開き、大会には全国の名だたる武将や茶人、連歌師が集い、花見や歌会に興じました。
大会に招待された政宗は、山伏姿で登場して茶店の店員に扮した秀吉と、軽快なやりとりをして、観衆を楽しませただけでなく、歌会では、他の追随(ついすい)を許さないほどの、名歌を詠(よ)んだといいます。
ただ、秀吉に和歌を称賛されたという記述はありませんが、この「吉野の花見」に参戦したことで、政宗がただの田舎侍ではなく、一流の文化人であることを示した出来事でした。

⑨朝鮮出兵は豪華絢爛の衣装だった

朝鮮出兵に向かう道中、伊達軍はその奇抜な出で立ちで京都の人を楽しませました。
小田原征伐からしばらく後、豊臣秀吉の号令により朝鮮半島への侵略戦争、いわゆる「文禄の役」です。
召集を受けた伊達政宗は、手勢を率いて領国を出立しましたが、このとき伊達軍は、世にも派手な格好をして、京都を通過し、話題をかっさらったといいます。
というのも伊達軍は、
●紺地に金の日の丸をあしらった旗
●刀に派手な飾りをつけた武者
●虎皮やクジャクの尾を使った鎧を着る馬
●「黒地に星をあしらった鎧」に「1m近くのとんがり笠」の足軽
という出で立ちだったのです。
これが「派手で粋なことを好む人」を指す「伊達者」という語に、由来するともいわれています。

⑩ずんだを発明したのは政宗だった?

宮城県の名物「ずんだ」は、伊達政宗に由来するという説があります。
一つは「政宗が陣太刀(じんたち)で、枝豆を潰して食べた」ことを起源とするもので、陣太刀が東北で「ずんだづ」などと発音され、それが訛って(なまって)「ずんだ」になったという説。
もう一つは百姓の「甚太(じんた)」が、ずんだの原型ともいう菓子を、政宗に献上したことが由来となり、「じんた」がやがて「ずんだ」に変わっていった説です。
ただしこれらの説は、史料的な裏付けに乏しく俗説であるといわれています。

⑪薬だと言い毎日タバコを吸っていた

伊達政宗は愛煙家としても知られています。
当時、煙草は「高級な薬」であり大名や豪商などの限られた人物が、健康法として喫煙しており、政宗もまたその一人だったのです。
そんな政宗は、一日に少なくとも3回は煙草を吸っていました。
とくに朝は起床してトイレから戻ると、政宗の合図で小姓が煙草を用意し、そのまま寝床で3~5服吸うのが日課だったようです。
また、政宗の墓所からは煙管箱が見つかっていて、その愛煙家ぶりを物語っています。

⑫徳川家家臣・酒井忠勝との逸話

伊達政宗は酒井忠勝に突然相撲を挑んだという逸話があります。
酒井忠勝は、徳川家光の重臣で老中を務めたこともある人物で、そんな人に対し、政宗はあろうことか江戸城内で突然相撲を挑みました。
そうこうしているうちに、騒ぎを聞きつけて野次馬が集まり、相撲をとらざるをえない雰囲気になりなりましたが、けっきょく勝負は忠勝の勝利で終わり、敗れた政宗は「案外相撲上手ですなぁ」と言った、ということです。
終始よく分からない逸話です。

伊達政宗70年の一生と歴史を簡単解説

年号出来事
1567年伊達輝宗の長男として誕生
1577年元服
1584年伊達家・家督を継ぐ
1585年伊達輝宗の拉致事件がおきる
1589年蘆名氏(あしなし)を滅亡させる
同年奥州を統一する
1590年小田原征伐に参陣する
1591年大崎・葛西一揆を鎮圧する
1592年朝鮮出兵のため上洛
1594年豊臣秀吉主催の「吉野の花見」に参加する
1600年上杉征伐に徳川方として参加する
1600年頃仙台に移り住む
1614年「大坂冬の陣」に徳川方として参加する
1615年「大坂夏の陣」に徳川方として参加する
1636年江戸屋敷にて死去。享年70歳でした。

伊達政宗の功績は

伊達政宗が家督を継ぎたった数年で、小さい大名から大大名にまで登りつめた。
そこに至るまでは決して楽な道ではなかったはずです。
もう少し早く生まれていれば天下を取ったのではないかと言われてします。
ではそんな伊達政宗の功績とは

  • 奥州の覇者となり伊達家を大きくした
  • 仙台藩の新田開発に力を注いだ
  • 江戸幕府の安定・平和に貢献した

これら3つについて解説します。

奥州の覇者となり伊達家を大きくした

伊達政宗は、家督相続からわずか5年で奥州を制覇します。
もともと東北地方は、多くの小大名が乱立する状態にあり、1584年に18歳で伊達家当主となった政宗は、我が身を顧みぬ果敢な行動で奥州を切り従えていきます。
しかしその道のりは、決して平たんではありませんでした。
家督相続の翌年には、服属を願いでた大名が父・伊達輝宗を拉致する事件が勃発し、やむなく犯人ごと父を射殺するという、衝撃的な事件になりました。
政宗は弔い合戦を仕かけますが思うように進まず、自軍の3倍もの反伊達連合軍が襲来して絶体絶命のピンチに陥りますが、結局連合軍内で混乱があって、危機は去ります。
その後も政宗は反伊達勢力と一進一退の攻防を続け、ついに1589年に南奥州の実力者・蘆名氏(あしなし)を滅ぼした後、奥州統一を果たします。
政宗はただのユニークな人ではなく、奥州統一を5年で成し遂げた稀代の英雄なのです。

仙台藩の新田開発に力を注いだ

伊達政宗は武勇だけの人ではありませんでした。
豊臣秀吉の死後「仙台」に移ると、領国経営に力を入れるようになります。
とくに農業面では、北上川流域を整備・開墾し、石高を押し上げたことは有名ですが、他にも、米を石巻港から江戸に輸送され「江戸の米の3分の1は奥州の米だ」と、いわれることもありました。
仙台藩は「加賀100万石」といわれる前田家や薩摩の島津家に次ぐ大藩でしたが、その基礎を形作ったのは政宗だったのです。

江戸幕府の安定・平和に貢献した

若き日には野心を抱いていた政宗も、晩年は江戸幕府の一大名として振る舞いました。
とくに三代将軍・徳川家光には、脇差(わきざし)を帯びたままでの謁見を許されるほどに、信頼を得ていたことで知られています。
若い家光にとって政宗は「伊達の親父殿」、戦国時代の昔話を聞かせてくれるおじさんであり、政宗もその信に応えるかのように、老いても参勤交代を欠かしませんでした。
その忠勤(ちゅうきん)は最期まで続き、病をおしてまで江戸に参り家光と面会した数日後、そのまま帰らぬ人となったのです。

伊達政宗が築いた最後の城【仙台城】とは

伊達政宗が、仙台に移るとともに築城した「仙台城」は、伊達家当主が代々居城としていました。
「仙台城」は小高い山に本丸をおき、東は川と断崖、南は谷に囲まれた「天然の要害」で、いわば「戦闘向けの城」です。
その一方で、徳川家に配慮して天守は建設しなかったともいわれ、政宗の政治的なセンスも感じられます。
ただ、山の上にあってアクセスの不便な本丸は後年使われなくなり、代わりに二の丸が麓に設けられて藩政の中心地となりました。
その後「仙台城」は「戦闘向けの城」から「政治の中心地」に移行され、戦の舞台となることなく明治時代を迎えました。
のちに城と城郭は焼失・破壊されてしまい、現在は「仙台城跡」として観光地化されています。

所在地宮城県仙台市青葉区川内1
アクセスJR仙台駅西口バスターミナル「仙台城跡」前下車すぐ
料金(資料館)青葉城資料展示館 大人700円、中高生500円、小学生300円
営業時間入園自由 青葉城資料展示館は、 4月〜10月 9:00〜16:20(受付終了15:50)、11月〜3月 9:00〜15:40(受付終了15:10)
休業日
駐車場あり(有料)150台/1時間500円 以後30分ごと200円(18時以降無料)

伊達政宗の性格・人物像等を簡単に解説

伊達政宗の性格・人柄・人物像などを簡単にまとめました。

  • 奥州の「覇者」になる
  • 天下人にも臆さない「剛の者」と言われた
  • 派手なパフォーマンスを好む「伊達者」の元祖
  • 多方面で活躍する「オールラウンダー」タイプ
  • 太閤と化かしあい、老中と相撲をとる「やんちゃ坊主」的な人柄

<まとめ>伊達政宗は70年の歴史の中で数々の伝説・逸話・エピソードを残した

独眼竜・伊達政宗は、魅力度No.1といっても過言ではない武将です。
政宗の人生をひもとけば、天才的な人物像が浮かび上がりますし、気取ったところがなく、破天荒なエピソードにも事欠きません。
かつての京人と同じく、現代人をも楽しませるその生き様は、まさに「稀代のエンターテイナー」だったといえるでしょう。