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伊達政宗の性格・人柄とは?逸話やエピソード、人物像まで解説

伊達政宗は、出羽国(現在の山形県)・陸奥国(現在の宮城県・福島県)の、一大名から東北の覇者へと上りつめ、その実力は後世まで伝え残されています。
「遅咲きの戦国武将」のネーミングと言われている政宗は、どんな人物だったのでしょうか?
そして、伊達政宗の性格や人柄、人物像などから伺える逸話・エピソードも解説していきます。

伊達政宗の性格とは

伊達政宗は、戦国武将らしい豪快な性格であった一方、聡明かつ律儀な性格も持ち合わせており、教養人としての顔もありました。
具体的な性格は

  • 政宗は教養人でもあった
  • 聡明な一面と豪快な性格を持ち合わせていた
  • 筆まめで書の腕前も一級品

これら3つについて紹介します。

政宗は教養人でもあった

伊達政宗は、漢詩や和歌といった文化にも精通していました。
その実力は多くの公家たちにも認められており、豊臣秀吉が開催した和歌に、優れた人物しか出席を許されない歌会に、早くから招待されていたり、当時の天皇が、編纂(へんさん)した和歌集に政宗の和歌が載せられていたりと、彼の教養が高く評価されていたようです。
このように政宗は、戦国武将の中でも教養人と呼ばれる部類の人だったことが伺えます。

聡明な一面と豪快な性格を持ち合わせていた

伊達政宗は聡明な一面も持っていました。
幼いころ寺参りに訪れた時、不動明王の前に立ち寺の僧に「慈悲深い仏がなぜこれほど恐ろしい顔をしているのか」と聞いたところ、僧は「この顔は悪を懲らしめるためのものであり、心の中は大変慈悲深いのです」という説明を聞くと、彼は「人の上に立つものはこうでなければならない」と答えたそうです。
一方で、政宗は7千の兵を率いて3万の大軍に立ち向かい、勝利を治めるなど豪快な性格も持ち合わせていました。
二面性を持つ彼だからこそ、周囲の人間では考えられないような戦法や考え方で、伊達家を急成長させられたのかもしれません。

筆まめで書の腕前も一級品

伊達政宗は家族のみならず、家臣や同僚である大名・公家にまで手紙を送っており、その数は1000通以上と言われています。
さらに芸事にも長けた政宗は、自筆書状を残した武将のなかでも抜群に字が上手く、「伊勢物語」を書写して襖絵(ふすまえ)に残すなど、書に対する自信が相当あったようです。
もしかすると政宗は自身の書の腕前を、周囲に見せびらかしたい一面があったのかもしれません。

伊達政宗を性格から見てどんな人柄なのか?

伊達政宗は聡明で文化人としての顔も持っていましたが、意外にも野心家でもあったそうです。また行動にも性格が表れていました。
政宗の人柄には、あの徳川家光も惚れ込んでいたと言われています。
その具体的な人柄は

  • 政宗は愛煙家
  • 徳川家光に慕われていた
  • 意外にも野心家だった

これら3つを説明してきます。

政宗は愛煙家

伊達政宗は几帳面な性格から、煙草を吸う時間も、起床してすぐ、昼時、就寝前と、一日3回と決めて吸っていたそうです。
当時「煙草が健康に良い」とされていたことや、政宗の墓地からは遺品としてキセルが出てくるほど、愛煙ぶりが伺えるでしょう。
ただ、健康のために行っていたことが原因で、亡くなってしまったのはなんとも皮肉です。

徳川家光に慕われていた

伊達政宗は、江戸幕府の三代将軍、徳川家光がつねに慕っていたと言われています。
祖父・徳川家康、父・徳川秀忠が生き抜いてきた、戦国の世を語れる数少ない戦国大名であることも言えるでしょう。
家光が将軍に就任した際も、家臣に対して牽制(けんせい)するような宣言をしたところ、政宗だけが味方となってくれたことにより、家光はとても頼もしさを感じ、将軍の前で刀を持つことは禁止されていましたが、政宗にだけには許していたそうです。
また、政宗が病気になった際は、自ら伊達家の屋敷に見舞いに行き、亡くなった時には父・秀忠の時より悲しんだとも伝えられています。

意外にも野心家だった

伊達政宗は天下取りの野心があったと考えられています。
ですが強すぎたことや野心家であることが行動に表れて、逆に周りから警戒されてしまったということです。
豊臣秀吉や徳川家康が天下を取る中で、政宗は、会津の領土を得るために反乱を起こさせてり、関ヶ原の戦いでは、南部氏の領土で反乱をあおり、どさくさに紛れて領土拡大をしようとしたりと、無茶な行動することがありました。
更に、スペインに親書を送り同盟を締結し、スペインの軍事力を味方に付けて、徳川幕府を倒そうとしていたとも言われています。
政宗はつねに時の権力者に対抗しようとしたことが、数々の行動から警戒させることとなり、天下取りの野心は実現できませんでした。

伊達政宗の性格から伺える逸話・エピソード

伊達政宗の逸話やエピソードは、数多く残されていますが、その中でも、性格や人柄が伺える代表的な逸話・エピソードとは

  • 豊臣秀吉との初対面で白一色の服装
  • 料理好きでおもてなし上手であった
  • 派手な軍服姿

この3つを紹介します。

豊臣秀吉との初対面で白一色の服装

伊達政宗は豊臣秀吉との初対面で、死装束である白一色の服装で現れました。理由は豊臣秀吉の怒りを鎮めるためでした。
政宗が東北統一目前の時に、秀吉は「東北でこれ以上戦を起こさないように」「ワシの元に参上せよ」と何度も命令しますが、東北統一に専念したい政宗はこれらを無視続けました。
しかし秀吉が北条氏を滅ぼしたことで、北条氏と同盟関係にあった政宗は、もはやこれ以上命令を無視できないと考え、秀吉のもとへ向かいます。
その時に白一束の政宗と対面し「殺されても文句を言えません」と、身をもって表現した豪胆さに秀吉は感心し、命も領土も取りませんでした。

料理好きでおもてなし上手であった

伊達政宗は大の料理付きであったと言われています。
毎朝起きて身支度を整えると、閑所(かんじょ)という畳二枚ほどの小部屋にこもり、その日食べる献立を考える習慣があり、将軍徳川秀忠に、自らの手料理を振舞うこともありました。
さらにグルメ通でもあり、仙台名物の「ずんだ餅」や「仙台味噌」も政宗が考案したという説があるほどです。

派手な軍服姿

伊達政宗は大の派手好きでも知られていました。
朝鮮出兵の際には、自身は陣羽織(じんばおり)を新調し、また兵士たちに派手な格好をさせ京の都を行進させたのです。
それを見た人たちは目を奪われ、以降政宗の格好にあやかり、派手好きな者のことを「伊達もの」というようになったそうです。
また、政宗の格好いい軍服姿に惚れたのは当時の人々だけではありませんでした。
なんと「スターウォーズ」のダースベイダーが、政宗が愛用していた胴具姿をモデルにしたとか。
政宗のファッションセンスは現代でも受け継がれているようです。

伊達政宗の代表的な 戦

伊達政宗は戦上手であり、意外にも策士である部分も持ち合わせています。
そんな政宗の代表的な戦とは

  • 摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)
  • 大坂の陣

これら2つの活躍ぶりを紹介します。

摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)

摺上原の戦いは、東北の覇権(はけん)をめぐって伊達政宗と蘆名氏(あしなし)の間に起こった戦いです。
東北統一に向け強大化する政宗を前に、他の豪族たちは反伊達連合として同盟を組むようになったため、伊達政宗は反伊達連合のリーダーであった蘆名氏と戦うことになりました。
戦場となった摺上原は磐梯山(ばんだいさん)と高森山に囲まれ、西に日橋川が流れる丘陵地帯。
伊達政宗は北側の磐梯山に陣を張り、南から攻める蘆名軍に鉄砲を浴びせます。
最初は強風が向かい風となり劣勢でしたが、風が追い風となると形勢は逆転。ついには日橋川に追い詰められた蘆名軍が次々と溺死し政宗の大勝利に終わりました。
この戦いによって政宗は東北の覇者の地位を確立したのです。

大坂の陣

大坂の陣は徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした戦いで、伊達政宗は徳川軍の一員として参戦しました。
大阪夏の陣の一つ「道明寺の戦い」では、豊臣軍の後藤又兵衛を滅ぼす戦功を上げています。
この時、政宗は味方である水野勝成軍(徳川軍)に発砲するという「味方討ち」を行っていますがこの理由は定かではありませんが、敵を殲滅(せんめつ)するために味方の多少の犠牲はやむを得ないという、彼の冷徹さからくる判断かもしれません。
しかし、このあと有名な豊臣軍の猛将・真田幸村が突撃。政宗も反撃したものの兵を撤退せざるを得ませんでした。
そして、政宗にとってこれが最後の戦になりました。

伊達政宗の死因は?

伊達政宗の死因は、食道がんとがん性腹膜炎の合併症で、亡くなったと伝えられています。
理由として考えられるのは、喫煙のしすぎが原因ではないかと思われていますが、この時代に70歳まで生きていることから、もしかすると老いも関りがまったくないとも言えません。
ただ、健康に気を付けていた人らしからぬ死因と言えるでしょう。

伊達政宗に関するQ&A

伊達政宗の容姿はイケメンだったのでしょうか。またその子孫は存続しているのか。政宗の刀はどうようなものだったのか?

  • 伊達政宗 子孫は?
  • 伊達政宗の刀は?
  • 伊達政宗はイケメンだったのか?

これら3つの疑問を解説します。

伊達政宗 子孫は?

伊達政宗の子孫は、それぞれ仙台藩と宇和島藩(現在の愛媛県)で大名として存続し続け、明治時代には貴族にて扱われていました。
現在は仙台伊達家の18代当主である伊達泰宗さんは、伊達家・伯記念會会長として、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の監修をするなど、政宗の活躍を後世に残すための、取り組みを数々実施されているようです。

伊達政宗の刀は?

伊達政宗は刀好きで、自分専用の刀鍛冶がいたそうです。
政宗の愛刀は多々ありますが、中でも有名なのが「燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)」。
元々鎌倉時代に作られた刀ですが、巡り巡って政宗のもとに渡りました。
この「燭台切光忠」の刀にはある由来があり、罪を犯した小姓が、反省していないのを見て怒った政宗が、この刀で切ったところ、小姓の先にある燭台まで真っ二つになったことから、この名前になったそうです。
政宗の残酷な一面と、この刀の切れ味が伺える恐ろしい話です。

伊達政宗はイケメンだったのか?

ゲームやドラマなどではイケメンに描かれがちな政宗ですが、果たしてそうだったのでしょうか。
政宗の遺骨が発掘された際に、その頭蓋骨を調べてみると、その素顔が見えてきました。
頭蓋骨を参考に復元された政宗の復元模型(みちのく伊達政宗歴史館にて展示)を見ると、面長で鼻筋が通った貴族的な顔だったようです。
一方で、その体格は当時の武将と比べても良かったと言われており、男性的な魅力を持った人物だったことが伺えます。

<まとめ>伊達政宗は性格やエピソードなどから律儀であり策士でもあった

伊達政宗は武勇と知略にたけた東北の雄です。
その堂々たる人柄や律儀な性格から、豊臣秀吉や徳川将軍など多くの天下人が魅了されました。
一方で、意外と料理好きだったり派手好きだったりと、親近感のわく一面も持っています。
時が戦国から太平の世に移り行く中で、最後まで戦国武将であり続けようとした名将・伊達政宗。
その魅力は今でも語り継がれています。