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北条政子はどんな人?人柄・生涯を含め解説【鎌倉殿の13人】第3弾

「北条政子」といえば『鎌倉殿の13人』で有名な「いま注目の人物」。
ちょっと検索するだけでも、「気が強い」「嫉妬深い」「リーダーシップがある」など、様々ありますが、実際はどんな人だったのでしょうか。
尼将軍や、日本の三大悪女とも言われている「北条政子」の、人物像やエピソードを含め、政子の生涯を解説します。

北条政子はどんな人だったのか?人柄・人物像は

北条政子は「激しく豪胆な性格」の持ち主で、特に夫である源頼朝との間に、政子の性格を感じさせるエピソードが残っています。
もともと、北条政子は父・時政の許しを得ずに頼朝と恋愛していましたが、当時の頼朝は、平家に追放された身ですから「あまり関わらない方が良い人」だったのです。
しかし、政子はそんなことなどお構いなしで、ついには時政の監視をかいくぐり、「雨の降りしきる闇夜を、頼朝のもとへ駆ける」という実力行使に出た結果、時政は政子と頼朝の結婚を認めることとなります。

北条政子の出家と尼将軍の経緯

北条政子は夫の死を気に出家しますが、持って生まれた気質の姓か尼になっても、幕府内の権力は衰えることはありませんでした。

出家した訳とは?

夫・源頼朝の死をきっかけに出家したとされます。
源頼朝は1199年、落馬事故がもとでこの世を去りました。
将軍の妻として「御台所(みだいどころ)」と呼ばれていた北条政子は、これを機に出家し「尼御台(あまみだい)」と呼称されるようになります。
ただ、出家の前後には頼朝のみならず、子どもも相次いで亡くなっていて、政子にとって辛い時期が続きました。

尼将軍(尼御台)とは?

「尼将軍」「尼御台」はいずれも北条政子の呼び名です。
そもそも「北条政子」という名前は、本人が生前に使ったものではなく、朝廷から位を授けられるとき、記名のため便宜的に「政子」と名乗ったことから、最近になって使われるようになった名前です。
実際には「御台所」「尼御台」「尼将軍」「二位殿」などと呼ばれており、史料によっては、将軍を指す「鎌倉殿」の名が使われることもあります。
「御台所」は「貴人の妻」に対する呼び名で、源頼朝の正室であることから使われるようになり、出家した後は「尼御台」と呼ばれるようになりました。
さらに源氏の将軍が途絶え、京都から公家の子どもを招いて将軍にすると、政子が後見人を担当して、まだ赤ん坊だった将軍に代わって実権を握ったことから、「事実上の将軍」ということで「尼将軍」と呼ばれることになるのです。

北条政子は何をした人なのか

北条政子は「北条氏の地位を高め、維持することに尽力した人」といえます。
もし源頼朝の正室にならなければ、北条氏は「伊豆の田舎侍」のまま注目を浴びることもなかったでしょう。
政子との結婚が、北条氏を「鎌倉幕府の中核を担う御家人」に成長させるきっかけとなったのです。

北条政子の最高の演説とは

北条政子といえば、「承久の乱」に際して御家人に結束を呼びかけたことで有名です。
1221年に後鳥羽上皇が、鎌倉幕府の代表である北条義時に向けて挙兵します。
当時は朝廷に従う武士もいたため、御家人は幕府に味方すべきか悩み、動揺が広がったため、北条政子は「皆、心を一つにして聞け!これが『最期の詞(ことば)』である!」と御家人に訴えかけ、「頼朝から受けた恩の深さ」を説き、「上皇をそそのかした連中を討って、先人の遺した領地や地位を守ること」を熱弁しました。
政子の演説によって、御家人たちは一致団結し、鎌倉幕府の名のもとに戦うことを決意し、朝廷の軍勢を迎え撃つどころか、逆に京都まで攻め上がって後鳥羽上皇を倒してしまうのです。

北条政子の出身と家族

【出身地】伊豆国
【両親】
『父=北条時政』
 伊豆国北条を拠点とする武士。「合議制の13人」の1人となり、権力闘争に身を投ずる。
『母=不明』

【兄弟姉妹】
『兄=宗時』
 時政の長男。源頼朝の挙兵に応ずるが、「石橋山の合戦」で討死。

『弟=義時
 「鎌倉殿の13人」の主人公。
 源頼朝の側近となり、頼朝の死後は、父・時政や姉・政子とともに、有力御家人の排除に動き、                 
 鎌倉幕府における、北条氏の絶対的な地位を築く。

『弟=時房』
 北条義時の死後、北条泰時(義時の子)とともに政務にあたり、幕府をけん引する。

『妹=阿波局』
 阿野全成の妻。有力御家人の1人である「梶原景時」失脚のきっかけをつくる。

『夫=源頼朝』
 鎌倉幕府初代将軍。一家が平清盛に敗れたため伊豆国に流され、政子と出会う。
 のちに関東の武士を率いて平家を滅亡に追い込んだ。

北条政子の生涯年表

西暦出来事
1157年北条時政の娘として生まれる。
1177年頃源頼朝と結婚。
1178年長女・大姫が生まれる。
1182年長男・万寿(源頼家)が生まれる。
1186年次女・三幡が生まれる。
1192年次男・千幡(源実朝)が生まれる。
1199年夫・源頼朝死去。出家して「尼御台」と呼ばれる。
1203年「比企能員の乱」に伴い源頼家が失脚する。
1205年北条義時とともに父・時政に対抗し、追放する。
1219年政子の子・源実朝が暗殺される。
1221年「承久の乱」勃発。御家人を前に演説し、一致団結に成功する。
1225年死去。享年69歳

北条政子に関するQ&A

北条政子に関する気になることをQ&Aにして解説します。
今回は、政子は頼朝の二人目の妻であること。そして子供の早すぎる死や、最期につてもまとめました。

政子との結婚は二度目

北条政子は源頼朝の「2人目の女性」です。
頼朝ははじめ、「伊東祐親の娘」と関係をもっていました。
伊東祐親は伊豆国の土豪で、平家方の武士として平清盛にも信頼されていたといいます。
頼朝は、祐親が京都に出張した隙を狙って交際し、ついには子どもまでつくってしまい、帰国した祐親は平家からの罰を恐れて大激怒し、二人の子どもを殺害して頼朝にも追手を差し向けます。
頼朝は命からがら落ち延びますが、逃亡先でまたもや「新たな出会い」があり、その相手こそ、北条政子だったのです。

子供たちの早すぎる死

北条政子の子どもは、いずれも10~20代の若さで亡くなっています。

  • 長女「大姫」
    「大人の事情」に翻弄され、悲惨な人生を送りました。
    というのも、大姫の慕っていた婚約者の父と、頼朝の関係が悪化しため、殺害されてしまったのです。
    大姫は心に深い傷を抱えたまま、20歳で亡くなりました。
  • 長男「源頼家」
    第二代将軍となりますが、やがて御家人たちの権力闘争に巻き込まれます。
    北条氏のライバルと親しかったことが災いし、最終的には北条時政らによって幽閉・暗殺され、
    23歳の生涯で幕を閉じました。
  • 次女「三幡」
    頼朝の後を追うようにして、14歳で病死しました。
  • 次男「源実朝」
    第三代将軍として北条義時・政子に支えられました。
    しかし28歳のとき、鶴岡八幡宮で右大臣の拝賀式に臨んだ直後、甥(頼家の遺児)によって斬殺。犯人である甥もすぐに殺されたことから、別に黒幕がいたといわれています。

北条政子の最期

北条政子は、嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)に69歳で亡くなりました。
政子の死に伴い、多くの御家人が出家したと伝われています。
死の1か月ほど前から、体調を崩しがちだったとされますが、どのような病気だったのか、はっきりしたことはわかっていません。
現在、墓所は寿福寺にあります。

寿福寺・基本情報

所在地神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7
営業期間
アクセス鎌倉駅から徒歩で10分
拝観料

〈まとめ〉北条政子は持ち前の気質で尼将軍と言われ鎌倉幕府に君臨した人でした

北条政子は、男性顔負けの気性の激しさや豪胆さで、策略・はかりごとなどが渦まく、鎌倉初期を生き抜きました。
その生涯は、後に「武士のボス」となる人との激しい恋にはじまり、夫や子どもたちの相次ぐ死を見届け、ついには朝廷に一泡吹かせる……と、まさに『波乱万丈』
優れた知恵を持つ「女帝」であり、「尼将軍」と呼ばれるにふさわしい器量の持ち主でした。


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