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北条時政はどんな人?政治や系図を含め解説【鎌倉殿の13人】第7弾

北条時政は、無名な御家人だったのですが、鎌倉幕府初期の時代で、陰の将軍とまで言われる才知ある人だったようです。
それも、源頼朝と出会ったことで、人生が一気に変わってしまいます。
そこで今回は、なぜ時政が無名から有名になったのか、そしてどのような人であり、何をしたのかも含め、家族や系図も一緒に解説します。

北条時政とはどんな人なのか?

多くを知られていない北条時政。
いったいどのような人だったのか、そしてどんな生涯だったのかを解説します。

北条時政はどんな人?

北条時政は、本来とくに注目を浴びるような御家人ではなかったと推測されます。
源頼朝の挙兵に初期から参加したものの、それ以降は目立った活躍のない時期が長らく続きました。
そもそも北条氏自体、「平直方(たいらのなおかた)」を祖先と仰いでいるものの、時政より前の記録や系図については、はっきりしない無名の役人に過ぎません。
しかし源頼朝が死去すると、時政は次第に頭角を現して、鎌倉幕府でも有数の御家人となり、「執権北条氏」繁栄の礎を築いた人です。

北条時政の人生とは

北条時政は1138年、伊豆国の「北条時方」(諸説あり)の子として生まれました。
北条義時・北条政子の父であり、罪人として扱われていた源頼朝が、娘・政子と結婚したことで、のちに北条氏が成長するきっかけとなります。

また頼朝が挙兵するたびに、他の北条一門とともに各地を転戦したり、鎌倉幕府の代表として朝廷との交渉役を務めたりしますが、めぼしい活躍といえば「源義経を捕らえるために、守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたこと」くらいでした。

しかし頼朝が亡くなると、第2代将軍・源頼家の横暴を止めるために、結成されたという「合議制」のメンバーとして幕政に介入し、名だたる御家人とバトルを繰り広げ、幕府内でも有数の権力者にのし上がります。
最終的には、身勝手な振る舞いが裏目に出て、周囲の反感を買い、伊豆国に追放処分となった後、1215年2月6日、78年の生涯を終えました。

北条時政は何をしたのか

北条時政は、謀略によって他の有力御家人を排除し、幕政を牛耳ろうとしたことで有名です。
なかでも、時政の計略家ぶりが発揮されたのは「比企能員(ひきよしかず)の乱」でしょう。
北条氏にとって、「合議制」のメンバーであり、第2代将軍・源頼家との血縁関係を武器に、絶大な権力をふるう比企能員は、邪魔な存在でした。

しかし、源頼家が病にかかったことで、北条氏が「幕府の領地を源頼家の子と、源実朝(北条氏と関係の深い)とで、分割しよう」と、頼家の引退を迫ると、比企能員が「北条時政討伐」を頼家に打診したことが「偶然」時政の耳に入ってしまったのです。
時政はここぞとばかりに比企能員を暗殺し、一族を攻め滅ぼしたうえ、能員を討った下手人までも、口封じに処分してしまいました。

権力闘争において、北条時政は天下無双の強さをほこったのです。

北条時政が苦労して得た地位は?

北条時政は「執権」の地位まで登りつめました。
(執権=今でいう長官・政治家のトップ)
北条氏との結びつきの強い第3代将軍・源実朝のとき、時政が「執権」に就任したのを皮切りに、北条一族が世襲するようになります。
さらに時政の子・義時からは「軍事・警察のトップ」を兼任。
やがて「執権」の地位にある北条氏が、「将軍に代わって幕府の実権を握る存在」となったのです。

時政は、北条氏が幕政を支配する体制を完成させたわけではありませんが、その下地をつくったといえるでしょう。

北条時政の家族と子孫

北条時政は、権力が増していくと、親子関係が悪化し、その裏には2度目の妻の存在が、見え隠れしているようです。
そこで、親子関係や妻の存在、そして子孫がどうなったのかを解説します。

北条義時・北条政子との親子関係はどうなのか

北条義時・北条政子は、始めは家族一丸となってライバルと対決していましたが、「畠山重忠(はたけやましげただ)の乱」をきっかけとして親子関係が急速に冷えこみ、決別することとなります。

比企能員を失脚させたこと、畠山重忠を謀反の疑いと称して討伐したこと、今度は時政が妻の「牧の方」と共謀して源実朝を取りのぞき、娘婿の「平賀朝雅(ひらがともまさ)」を将軍に擁立しようとしたことが発覚し、とうとう身内である、義時や政子にさえ愛想をつかされ、鎌倉から追放されてしまいました。

1番目の妻と2番目の妻・牧の方とはどんな人なのか

北条時政には2人の妻がいました。

始めの妻は、名前などはわかっていませんが、伊豆国の豪族「伊東祐親(いとうすけちか)」の娘で、二人の間の子供たちには、義時や政子らがおり、他の娘が畠山重忠に嫁ぎました。

一方、後妻は駿河国の「牧宗親(まきむねちか)」の娘(妹とも)である「牧の方」で、平賀朝雅の姑にあたる人物です。
「牧の方」は時政とともに源実朝排除に動いて失敗した「牧氏事件」で知られていますが、畠山重忠が前妻の娘婿、平賀朝雅が後妻の娘婿だったことを踏まえると、「畠山重忠の乱」で前妻の血筋を滅ぼして後顧の憂いを断ってから「牧氏事件」を起こすという、時政の周到な計画が浮かび上がります。

なお、「牧の方」は時政とともに鎌倉を追い出されますが、京都の娘夫婦のもとに身を寄せて優雅な人生を送ったそうです。

北条時政の子孫は?

北条氏の血筋は10を超える系統に分かれましたが、鎌倉幕府の滅亡とともに歴史の表舞台から姿を消しました。
北条氏は時政の孫の代で、「名越(なごし)」「極楽寺」「伊倶(いぐ)」「金沢(かねさわ)」「佐介」「大仏(おさらぎ)」といった流れに分かれた後、さらに「赤橋」「塩田」「普恩寺(ふおんじ)」「上野」「甘縄」へと枝分かれします。
他方、「北条時政・義時・泰時……」とつづく本家は「得宗家」と呼ばれ、幕政の実権を握る「執権」の多くは得宗家出身者が担当しました。

このように一介の田舎侍に過ぎなかった北条氏は大きく発展しましたが、鎌倉幕府の滅亡とともに一門の多くが自害し、その栄光は露と消えたのです。

北条時政の系図

北条時政に関するQ&A

北条時政のちょっと気になる疑問をQ&A形式で紹介します。
今回は、家紋の由来と墓所がなぜその場所だったのかを解説します。

家紋は何なのか

北条時政の家紋は「北条鱗(うろこ)」というもので、江の島で授かった「龍の鱗」をモチーフとしています。
伝わるところによると、時政もまた修行のために江の島を訪れたとき、「赤い袴に裏地が柳色の衣をまとう美女」が現れ、「前世の善根により、あなたの子孫は、末永く日本の主となって栄えるであろう」と予言するや、大蛇に姿を変えて海に消え、跡には3つの鱗が残されていたのが「北条鱗」の始まりだと言います。
美女は「弁財天」、蛇は「五頭龍」を示すとされるので、北条鱗は「龍の鱗」を象った家紋なのです。

墓所は何処にある

北条時政の墓所は「願成就院(がんじょうじゅいん)」にあります。
「願成就院」は、源頼朝が奥州藤原氏を、無事に討てるよう祈願するために、北条時政が建立した寺院で、時政の菩提寺となりました。
寺院は時政・義時・泰時の手で増築されるも焼失してしまいましたが、仏師・運慶がつくった仏像は現存していて、国宝に指定されています。

願成就院・基本情報

所在地〒410-2122
静岡県伊豆の国市寺家83-1
営業時間10:00~16:00(最終受付15:30)
休館日:毎週火・水曜日、節分の日・7月30日~8月3日・8月15日・12月24日~31日
拝観料大人700円・中高生400円・小学生200円
アクセス伊豆箱根鉄道駿豆線「伊豆長岡駅」からバスで5分
駐車場有り(無料・20台)

まとめ:北条時政は影の主役だったが欲を出したことで身を滅ぼした人でした

北条時政は、謀略の才を駆使し、それまで無名の武家であった北条氏を歴史の表舞台に立たせた「豪傑(ごうけつ)」な人です。
「合議制」が発足して以来、数々の有力御家人が失脚しましたが、その背景には時政の暗躍を伺わせる情報が数多く残されていて、裏ですべてを動かしていた「影の主役」といっても過言ではないでしょう。
最後には時世を読み誤って、御家人や身内の反感を買い、鎌倉を追い出されるという幕引きとなりまが、戦場での派手な戦いより、権力闘争を得意としていた時政には、相応しいものだったのかもしれません。