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本多忠勝は戦国時代の最強武将!63年の生涯年表と名言・逸話徹底解説

本多忠勝は、生涯をかけて徳川家康に仕え、徳川幕府(江戸時代)の基礎を築いた戦国武将です。
徳川四天王の一人でもあり、徳川家・家臣では最強武将でもあり、器の大きい度胸のある人物として語り継がれています。
また「日本三名槍」のひとつである「蜻蛉切」(とんぼきり)を愛刀し、戦では57回の戦いで傷ひとつ負わなかったとも言われています。
そんな本多忠勝の人柄が伺える逸話や愛用していた槍・兜など、どのような生涯を送ったのか、名言なども含めて解説します。

本多忠勝の生涯年表を簡単に解説

天文17年(1548年)3月本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれる。
天文18年(1549年)2歳父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。
永禄3年(1560年)13歳桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。
永禄6年(1563年)16歳三河一向一揆に徳川方として参戦する。多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた
永禄9年(1566年)19歳旗本先手役に抜擢されて、与力(よりき)54騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した
元亀元年(1570年)23歳姉川の戦いにも参戦。この戦いで朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。
元亀3年(1572年)25歳二俣城の戦いの前哨戦となる、一言坂の戦いでは偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。家康本軍を逃がすための撤退戦をし、見事成功を収める。同年12月の三方ヶ原の戦い参戦する。
天正元年(1573年)26歳長篠城攻めで榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っている。
天正3年(1575年)28歳長篠の戦い。天正8年(1580年)33歳。高天神城奪還戦にも参戦している。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛される。
天正10年(1582年)35歳本能寺の変が起きる。この時忠勝は家康とともに堺に滞在中。伊賀越えを進言して家康の窮地を救う。
天正12年(1584年)37歳小牧・長久手の戦い。当初忠勝は留守を任されたていたが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦してると聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつける。この時の豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された。
天正16年(1588年)40歳朝廷より従五位下・中務大輔(なかつかさのたゆう)に任ぜられる。
天正18年(1590年)43歳家康が関東に移封されると、上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)で10万石を与えられ、大喜多城を築城し一国一城の主となる。
慶長5年(1600年)53歳関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍した。但し、本多本隊は嫡男の忠政が指揮。忠勝は徳川本陣にあって、豊臣恩顧の武将の監視役にあったともいわれる。
慶長6年(1601年)54歳この功績により伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。
慶長9年(1604年)56歳この頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。病を理由に隠居を申し出るも、この際は家康に慰留されている。
慶長14年(1609年)62歳嫡男・忠政に家督を譲って隠居する
慶長15年(1610年)2月63歳桑名城の一室にて死去。(享年63歳)

本多忠勝が最強武将と言われる理由

本田忠勝は徳川四天王の一人として「戦国最強論争」に必ず挙げられ、名槍「蜻蛉切」を振るい、生涯五十数度の戦でかすり傷さえ負わなかったと称される猛将と言われています。
ではなぜ最強武将と言われたのか

  • 初陣から猛将の片鱗を見せる
  • 57回の戦で無敗の戦上手
  • わずか500人で大軍を制圧する

理由として考えられる代表的なこの3つを解説します。

初陣から猛将の片鱗を見せる?

本田忠勝は、戦国時代の猛将として名を馳せ、後に徳川四天王の一人として、徳川家康を支え続けたことでも有名ですが、初陣に関しては諸説あります。
それは、13歳の時に参戦した「大高城兵糧入れ」徳川家康を支え危険な任務にあたったと言われていますが、大した活躍はなく、これが初陣と言えるものかは定かではありません。
そして「大高城兵糧入れ」の後に行われたといわれる、鳥屋根城(登谷ヶ根城ともいう)(とがねじょう)合戦。
 幼くして父を亡くした忠勝の親代わりである叔父・本多忠真が、討ち取った敵の首を忠勝に譲ろうとしたところ、忠勝はこれを固辞。
自らの手柄は自らで勝ち取るという勢いで、敵陣へ攻め込み、見事初首を挙げたといわれます。
後の猛将を感じさせる逸話です。
 

57回の戦で無敗の戦上手

忠勝は、家康に従い多くの戦いに参戦し、その数は57戦と言われており、しかも57回の戦いで、無傷で無敗であったということも残されていますが、真偽の程は定かではありません。でも彼の勇猛果敢さ、戦上手さは確かなものがあったようです。
また、戦の相手方から称賛の言葉が多く残されているのも忠勝の特徴といえそうです。

・武田方の武将、小杉左近の賛辞 「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(家康の 兜)に本多平八(忠勝)」
・織田信長の賛辞 「花も実も兼ね備えた武将である」
・豊臣秀吉の賛辞 「日本第一、古今独歩の勇士」
などが有名なものとして残されており、印象的です。

ただ、戦場で武勲を重ね、称賛の言葉が残されている忠勝ですが、教練の場では、意外にも 槍術ぶりが不器用であり周囲から驚かれた、といった話も残されており、そのあたりは完璧ではなく、人間味を感じられ印象的です。

わずか500人で大軍を制圧する

本多忠勝が伝説を残す戦いは、天正12年(1584年)豊臣秀吉と徳川家康が対陣した戦「小牧長久手の合戦」です。
「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)によると、
 当初、忠勝は留守を任せられていたのですが、秀吉の大群に対し、危機に瀕した主君家康の状況を知るや否や、わずか500人の兵を率い駆けつけます。

川を挟んだ秀吉の大群に対峙、川の中に単騎で乗り入れ、馬に水を飲ませるという、なんとも大胆な行動に打って出たのです。
この忠勝の主君を守るための勇猛果敢な振る舞いに、大変な感銘をうけた秀吉は、自らの家臣たちに忠勝を討ち取ることを禁じたと言われています。

その後忠勝に惚れ込んだ秀吉は、自分の臣下にとりたてようと試みますが、忠勝は、秀吉からのそのような申し入れを丁重に断ったとそうです。
なぜなら、忠勝にとって主君は徳川家康。その忠誠心は決して揺らぐことが無かったと考えられます。

本多忠勝愛用の槍「蜻蛉切」とは

本多忠勝といえば「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれる愛用の槍が有名です。
 なぜ「蜻蛉切」という名なのかには、そのホサキのあまりの鋭さに、当たったトンボが真っ二つになってしまった。
または忠勝が素早く飛び交うトンボを両断したなどの諸説あります。 
この槍は、刃長一尺四寸(42-43cm)、柄は二丈(約6m)。この時代の一般的な長槍の柄は、一丈半(約4.5m)だったので、かなりの長さの槍だったようです。 

忠勝は、天下三大名槍の一つに数えられるこの「蜻蛉切」を16歳の頃に、三河国田原の刀工・藤原正真(ふじわらまさざね)に依頼し、手に入れました。
この長い槍を馬上で取り扱うのは、相当な技術とパワーを要するとされますが、忠勝は、数々の戦場へ赴き、この「蜻蛉切」を見事に使いこなしています。
「蜻蛉切」とともに数々の修羅場を潜り抜け、主君・徳川家康を支えてきた忠勝は、この愛槍を自らの守り神の一つとして捉え愛用し、晩年も「蜻蛉切」を大切にしていたようです。
自分の体力にあわせ柄の長さを短くしたものの、最後まで戦に備える心を忘れなかった武人、忠勝の凄みを感じさせられます。

本田忠勝の身長は?

忠勝の身長の詳細については正式な記録はありません。
愛用の槍「蜻蛉切」がかなりの長さであり、その槍を華麗に使いこなす忠勝の活躍ぶりが、数多く残されていることから、忠勝は、少なくとも170cm程度の身長の人物だったのではと、考えられています。
一方で、もう一つの愛用品である彼の鎧の胴高が39cmだったことから、身長は160cm程度とも、言われていますが、忠勝の身長に関する真偽の程は確かではありません。
彼の残された武勇伝の数々から、並な体力と精神力の持ち主の人物であったことが伺い知れます。

本多忠勝の兜の由来

本多忠勝の兜は、黒一色の鹿角脇立兜と呼ばれるもので、なぜ鹿の角を兜にしているのかは、忠勝が徳川家康への忠義の心を常に抱いているという証でもあります。

その証となるある出来事がありました。
それは、忠勝が13歳の頃に起きた「桶狭間の戦い」で、当時家康の主君であった今川が討たれてしまいます。
もともと独立を考えていた家康は、今川家が混乱している隙に、一刻も早く独立するために、故郷の岡崎城を目指します。
しかし岡崎の手前にある矢作川は、大雨で増水していて渡ることができず困り果てていた所に、一匹の鹿が川のある所を悠々と渡ました。
その姿を見ていた家康は、そこが浅瀬と気付き、その浅瀬を利用して渡、無事に岡崎城に戻ることができました。

忠勝は、この時の鹿は伊賀八幡宮の使いが姿を現して、徳川家康を助けてくれたのだと考え、この鹿のように、自分が徳川家康をお守りするのだという決意を込めて、鹿の角をした兜を作ったと言われています。

本多忠勝と真田家との関係性

本多忠勝と真田家は、親戚関係にあたります。
忠勝の娘・小松姫が真田幸村の兄・真田信幸に嫁ぎます。
そもそも、忠勝が仕える徳川家康と真田昌幸は、敵対関係にありました。ですが、忠勝は敵とは言え、真田家を高く評価しており、できることならば、味方に付けたいと思っていました。
そこで家康に、自分の娘・小松姫を真田家に嫁がせる提案を出します。家康も真田家の実力を認めていたため、この婚姻話は実現することになります。
ただ、昌幸が身分違いで少しごねたことで、忠勝は、娘小松姫を一度家康の養女にし、箔をつけてから、という案を示し、昌幸も承諾。
なんとか無事に結婚が成立し、本多家と真田家は親戚関係となりました。

本多忠勝の戦での伝説的な逸話

本多忠勝は、徳川四天王の一人で、徳川家康一筋に忠義を尽くします。生涯で57回無敗の最強武将です。ですがただ強い武将ではなく、冷静沈着で判断力もあるたよえる人でもありました。そんな忠勝の性格や人柄が伺える戦での逸話は

  • 一言板の戦いで世に名前を轟かせる
  • 小牧・長久手の戦いでは豪快いな戦をする
  • 関ヶ原の戦いは不満と知力で戦う

本多忠勝らしさが出ているこの3つの戦の逸話を紹介します。

一言板の戦いで世に名前を轟かせる

本多忠勝の名を世に轟かせたのが「一言坂(ひとことざか)の戦い」。
この戦いは、徳川領の二俣城をめぐる、徳川家康と武田信玄の攻防のことです。
数で劣る徳川軍は、武田軍が二俣城に到着する前に、天竜川を渡り、武田軍を待ち構え、大打撃を与えようと目論んでいました。
しかし、武田軍は徳川軍が想定していたよりも早く進軍し、偵察に出向いていた本田忠勝と武田軍が遭遇してしまいます。
危険な殿(しんがり)を務めていた忠勝は、見付(現静岡県)に火を放ち、武田軍の攻撃を遅らせます。
ですが、一言坂で追いつかれ戦になり、凄まじい戦いぶりをした忠勝に、家康は「平八郎(本多忠勝)が八幡神に見えた」と絶賛。また敵である武田軍の武将・小杉左近も戦いぶりを褒めたたえた。
この戦によって、本多忠勝の武勇は広く天下に知れ渡ることとなります。

小牧・長久手の戦いでは豪快いな戦をする

本多忠勝の豪快さが伺えるのが「小牧・長久手の戦い」です。
この戦いは、1584年・羽柴秀吉と織田信雄、徳川家康連合軍の間て行われた戦。
長久手の戦いで羽柴軍壊滅の報を受けた羽柴秀吉は、2万の本隊を引き連れ家康に襲い掛かろうとしますが、その行く手を阻んだのがわずか500人の兵を引き連れた本田忠勝です。
龍泉寺川沿いを進軍する秀吉に対し「渡れるもんなら渡ってみろ」と挑発します。その上、忠勝は、秀吉の真向かいで馬に水を飲ませるという余裕を見せつける。
この忠勝の行動に、秀吉は「あそこまで肝の据わった武将を殺してはいかん。いつか俺の役に立つ」と語り、本多忠勝への攻撃をしませんでした。
その後秀吉は、本田忠勝のことを「東国一の勇士」と称賛しています。

関ヶ原の戦いは不満と知力で戦う

徳川家四天王と言われた本田忠勝ですが、関ヶ原の戦いでは、自分の満足する戦ができませんでした。
徳川家康の命令では仕方がないですが、忠勝の軍の主力は息子である本多忠政に預け、忠勝はわずか500の兵のみでした。
また、徳川本陣にて、味方に付いた豊臣恩顧の家臣・福島正則、加藤嘉明などを監視するような役割を担っていたのです。それでも、忠勝はわずかな兵で出陣し90もの首級をあげたそうです。

また、東軍の背後の山の上に西軍の大将毛利輝元が陣を構えましたが、輝元の筆頭補佐役をしていた吉川広家を引き入れ工作をしていたことや、
「毛利軍に戦う意志があるのなら、山の上ではなく、山の下に陣を構えるはず。山の上に陣をはったのは戦う意志がないということ」と発言し味方を安心させ、忠勝の思惑通りなのか、攻めてくることはありませんでした。
忠勝は、この時50歳を過ぎていましたが、引き入れ工作など、今自分で出来ることを力いっぱい努力しました。

本多忠勝の名言

本多忠勝が残した有名な名言を2つ紹介します。

「思慮のある者も、思慮のない者も功名を立てる。思慮のある者は兵を指揮して大きな功名を立てる。だが、思慮のない者は槍一本の功名であって、大きなことはできぬ」
※思慮(しりょ)とは、注意深く心を働かせて考えること。

<意味>
「心を働かせじっくり考えた者もそうでない者も名をあげることができる。しかし、頭を使って戦略、戦術を練り、慎重に考え兵を指揮することができれば、大きな手柄をたてることができる。考えもせず槍一本だけで得た手柄などたいしたことはない」
皆が団結した時のチカラの凄まじさとそれを取りまとめる、上に立つ者の器量、これらの大切さを表した名言です。

「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の君を思えば」
これは忠勝の辞世の句です。
<意味>
「死にたくない、ああ死にたくない死にたくない、家康さまから受けた深い恩を思うと」
まだまだ、家康に仕え恩に報いたい、その強い気持ちが込められています。
ちなみに家康は忠勝の死後、6年は生きます。この時点ではまだまだピンピンしているのです。
死ぬまで貫いた主君への忠誠心は、戦国最強の名にふさわしい立派な句です。

本多忠勝の死因は?

本多忠勝は、63歳で病死により生涯を終えています。
そんな忠勝は、死の数日前、小刀で彫り物をしていました。その際、自分の名前を刻もうとした瞬間、手を滑らし自らの指を切ってしまい、生まれて初めてのケガをし「自分の命運もこれまでか」と語り、言葉通り数日後に亡くなっています。なんの病気が原因で亡くなったのかは今でも不明ですが、1607年頃から目病を患っていたことから、糖尿病による網膜症だったのではという説が有力です。

<まとめ>本多忠勝は徳川四天王と言われるほど最強の武将でした

本多忠勝は、57回の戦でかすり傷さえ負わなかったという最強伝説は、後世に語り継がれています。
戦上手はもちろんのこと、度胸もある人物と言えるでしょう。
しかし亡くなる数日前には、彫り物をしている際に手を傷つけてしまいました。その光景を目の当たりにした忠勝自身が「本多忠勝が傷を負ったら終わりだな」とつぶやいたとも、伝えられていますが、ただ真偽は定かではありません。
晩年の忠勝は病気がちで、天下無双の武人であっても、老いと病には勝てないということを、我々に教えてくれているのかもしれません。