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今川義元の首は桶狭間の戦いで取られてその後どうなった?【徹底解説】

海道一の弓取りと言われた戦国武将・今川義元。駿河(現・静岡県)を治めていた義元は、武田信玄や北条氏康と義兄弟で、武将としてはエリート家系と言えるでしょう。
そんな義元が戦で敗れ首を取れてしまったのが、織田信長です。その戦は日本史では必ず出てくる有名な戦「桶狭間の戦い」です。
今回は、今川義元の最後を中心に、負けて首を取られた経緯や、取られて首はどうなったのかを解説します。

今川義元の首を取った武将は毛利良勝と服部小平太

今川義元の首を取った武将は毛利良勝と服部小平太です。
桶狭間の戦いで首を取ったという事実が『信長公記』という書物に記されています。
織田信長の軍から奇襲を受けて逃げようとした今川義元を織田信長の家来であった毛利良勝と服部小平太の二人が協力して討ち取りました。
今川義元の首を取ったことで毛利良勝と服部小平太の二人は一気に名を上げたとのことです。

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桶狭間の戦いの概要

桶狭間の戦いは今川義元率いる2万5千の大軍が織田信長率いる4千の織田軍に奇襲をかけられ敗れた戦いです。
うつけと言われていた織田信長を甘く見ていたのか、一気に攻め落とそうと今川は尾張に進軍して行きました。
信長も今川の進出を阻止すべく動きけん制しますが、今川の大軍に対して苦戦します。
勝利を確信した義元は桶狭間と呼ばれる窪地で休憩。これを聞き信長は桶狭間に向かい、1560年6月に桶狭間の戦いが始まったのです。
始めは義元有利に進んでいた戦ですが、大雨が降ったことで形勢逆転になり、結果、義元は桶狭間の戦いに敗れてしまいました。

今川義元の最後【死因についても解説】

今川義元が桶狭間の戦いで敗れた理由としては、

  • 悪天候の中での乱戦
  • 戦の最中に首を取られてしまう

の2つです。
ここから2つの理由について詳しく解説します。

悪天候の中での乱戦

織田信長勢が今川義元の本陣を目指していた時、雨がぽつぽつと降り出しやがて大雨となりました。
信長はこの大雨に乗じて、今川義元の本陣めがけて一直線に進撃。
大雨で視界が悪くなっていた中で、いきなり奇襲をかけられた義元は、大混乱に陥りました。
また、土地がら桶狭間が狭いこともあり、義元を守る実兵力は5千~6千人程度だったため、大将同士が刀を交える乱戦となったのです。

戦の最中に首を取られてしまう

義元自身も最後まで果敢に戦いましたが、織田軍の服部小平太が最初に義元に襲い掛かり、小平太の膝を切りつけて反撃。次に切りかかってきた毛利良勝にも抵抗し、良勝の指を食いちぎっりました。
しかし、最後は義元の拳闘むなしく体力がつき良勝に首をはねられます。
享年42歳。彼が最後に持っていた愛刀・義元左文字は織田軍に奪われてしまったということです。

今川義元の首は取られて、その後どうなったのか?

今川義元の首は、どうなったのか

  • 須ヶ口にさらされた
  • 岡部元信の忠義によって義元の首が今川家に戻る

この2つから、織田信長によって、首をさらされ、今川の家臣の忠義によって今川家に戻ったことを解説します。

須ヶ口にさらされた

今川義元の首は、信長のもとに届けられ、愛知県名古屋市にある長福寺で首実検にかけられました。
これは敵の首級の身元を判断し、申告通りなのか確かめる場でもあったのです。
戦国時代において、戦でどれだけ戦功するのと同時に、どれだけ首級を上げることは大事な事でした。
義元の首は、長福寺の案内板に書かれていますが、義元の茶坊主であった林阿弥が首実験を命令し、清須市の須ヶ口というところにさらされました。
その後、義元の首が返還されたのち須ヶ口には、義元の供養塔が建立され今川塚と呼ばれています。

岡部元信の忠義によって義元の首が今川家に戻る

義元の首はその後今川家に戻りました。
桶狭間の戦いの後、今川家家臣の岡部元信という武将がその首を渡してほしいと織田家に申し入れをしたからです。元信は義元が撃たれた後も、鳴海城に立てこもり、織田軍と戦っていました。
元信はこの城の引き渡しの条件に、義元の首をいただきたいと申し出、元信の忠誠心に感心した織田信長は、義元の首を丁寧に棺に納めて送り届けたとされています。

今川義元の首塚と墓

義元の墓は駿河にはありません。
それは岡部元信が義元の首を駿河に持って帰る時期が初夏であったからです。
暑さで首はすでに腐敗が進んでいたため、途中で埋葬せざるを得ませんでした。元信は道中で今川家に縁のあっる東向寺に立ち寄り、ここに塚を築いて埋葬をしました。

この地に二名の武士(名前は残されていません)が残り代々その墓を守ったと伝えられています。
ちなみに胴体の方は織田軍に持っていかれずに残ったため、これを今川家臣の手で駿河に持って帰ろうとしますが、こちらも損傷が激しかったため、帰路の途中である今川領であった豊川市牛久保町にある大聖寺に埋葬されました。

まとめ:今川義元は桶狭間の戦いで破れ首を取られたが、家臣の忠義によりお寺に埋葬され後世まで守られています

今川義元の最後は、桶狭間の戦いで戦の最中に、織田信長の家臣・毛利良勝と服部小平太に首を取られ負けてしまいましが、義元の家臣・岡部元信の忠義で首を返してもらいました。
ですが、季節が夏場だったこともあり駿河には戻ることができず、義元ゆかりの地のお寺に埋葬され、家臣によって後世まで、祀られ守られています。
亡くなった後も義元に忠義を捧げることができるのは、生前義元は家臣を大切にしていたのかもしれません。