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石田三成はいい人?性格・人柄からどんな人なのか逸話を交えて解説

石田三成は、自らの権力を利用して人を陥れた嫌味なタイプのイメージが、強いのではないでしょうか。
ですが三成の悪いレッテルを張られたのは、江戸時代に入ってからのことです。と言うことは、本当の石田三成とはどのような人だったのか?疑問が残ります。
決して戦は上手ではなかったが、切れ者で律儀な性格だったとも伝えられています。では、実際の石田三成とはいい人なのかを、性格や人柄なども交えて解説します。

石田三成の性格・人柄とは

  • 好き・嫌いがはっきりしている、融通が利かない頑固者。
  • 頭脳派で算術を得意とした、生真面目な官僚タイプだった。
  • 戦上手ではないが、食料や武具・戦に掛かるお金の管理などの、後方支援を得意としていた」
  • 己のために私腹を肥やすタイプではなく、生活は質素でした。
  • 人とのコミュニケーションが苦手
  • 死の直前まで体調を気にする変わり者

後世に伝えられていることから、石田三成の性格・人柄は、頑固ものではあるが、頭脳明晰だったことや私利私欲で政りごとを、動かくタイプではなかったことがわかります。だから豊臣秀吉もその才覚を見抜き、側近としてそばに置いたのではないでしょうか。

石田三成はどんな人?

石田三成という人は、嫌われ者のイメージが強いと思います。
堅物や戦が下手だと言われ、一方では義理堅く、才覚のある人物として見られ、浅く広くの人間関係ではなく、少なくても信頼できる人物と、とことん付き合うタイプです。
そんな三成はどのような人だったのか?伝え残されているのは

  • 石田三成と大谷吉継は互いに切磋琢磨できる深い友人関係だった
  • 実は嫌われていた?
  • 戦は得意ではないが政務は凄い実力派

これらの3つから三成の人物像を見ていきましょう。

石田三成と大谷吉継は深い友人関係だった

石田三成は、好き・嫌いがはっきりしていて、人とのコミュニケーションが苦手だったため、真の友と呼べる人は少なかったようです。
ですが、大谷吉継とは硬い友情を育んだ親友関係にあったとされています。
裏切りが日常茶飯事だった戦国時代においてこの二人の関係性は美談として後世に語り継がれています。
実際に今でも「石田三成を描く作品には大谷吉継」「大谷吉継を描く作品には石田三成」互いに欠かせない存在として描写されています。

二人が友情を育むことができた理由として挙げられるのは、三成は1560年、吉継は1565年生まれで世代が近かったこと、三成と吉継は「計数の才(政治分野)に長けたもの」として、秀吉に目を掛けられていたことから、同じような分野・場所で働くことが多かったことや、性格的には好対照ではあったが、お互い切磋琢磨してたと考えられます。
ある意味ビジネスパートナーのイメージとも言えるかもしれません。

実は嫌われていた?

石田三成は「嫌われていた」ではなく『誤解』されやすい人。いつの時代にも誤解されやすい人はいます。
例えば組織を円滑に運営するために「嫌われ役」「汚れ役」を、務めなければならない立場の人が必ずいます。その立場に当たるるのが三成です。
実際、奉行として秀吉の命令を実行する立場であったのは事実です。
言いたくないことも言わなくてはなりませんし、職務に忠実であろうとすればするほど、その人は「鬼」などと言われて、周囲から煙たがれることで、誤解も招きやすかったと考えられます。
これらのことから三成は、私情を挟まず冷静な対応や、無遠慮な態度と見え誤解されたのかもしれません。

戦は得意ではないが政務は凄い実力派

石田三成の得意分野は、戦で武功を上げることよりも頭脳で武功(ぶこう)を上げるタイプです。
戦の裏方というのは、考えているよりずっと複雑で難しく、実は凄く大切なのです。
兵一人一人に対して、必要な兵糧や弾薬などの量を細かく計算して運ばせるのが後方支援の役目。戦うことも大事ですが、それを支える食料や武器の補給がなければ、戦い続けることはできません。

一方、戦がないときは奉行職に三成はありました。
奉行は政務を執り行う役職であり、今でいう官僚ですね。秀吉が行った検地の奉行も務めました。
検地で色々とわかり年貢だけでなく、大名や家臣への褒美として、土地を与えるのにずいぶん役立ちました。ただ、全国ですから膨大な量で大変でしたが、三成は奉行をしっかりとやり遂げたんです。

石田三成の感動するいい人話のエピソード

石田三成の交友関係は、さほど多くはないです。一人の人とじっくり付き合うタイプ。そのため相手とは「情」と「義」を大切にしていました。そんな三成の性格から、伝え残されている感動のエピソードがあります。

  • 友人大谷吉継のエピソード
  • 島右近を家臣にするまでのエピソード
  • 渡辺勘兵衛とのエピソード

この3つのエピソードから、三成という人を紐解いていきます。

友人大谷吉継のエピソード

石田三成と大谷吉継が呼ばれた茶会での感動のエピソードです。
戦国時代は戦だけではなく、現代にも受け継がれている、お茶の文化が大名たちの間で盛んになり、茶会が開かれたり、恩賞の変わりに茶器を与えられる時代でもありました。
当然、三成や吉継も多くの茶会に呼ばれています。

ある茶会に三成と吉継が一緒に、参加することがありました。
茶会でたてられたお茶を順番に飲んでいた時、吉継の顔から膿が一滴、お茶の中に垂れて茶碗の中に入ってしまいました。その頃、吉継は「らい病(ハンセン氏病)」という病気にかかっていました。当時は不治の病とされ、感染や皮膚の見た目から人々から忌み嫌われていました。

茶会では、たてられた一杯の茶を全員に回し、少しずつ飲むのが作法でしたが、膿が入ってしまったのを見た人たちは感染を恐れ、気味悪がり、飲んだふりをしていました。
そんな中で三成だけは、その茶を平然と飲み干し「美味しかったので全部飲んでしまいました。もう一杯たてていただきたい。」と言い放ちました。
その行動に吉継は大変感激し友好を深めたのでした。

島右近を家臣にするまでのエピソード

島左近とは、本名「島 清興」(しま きよおき)。(通称が島左近)生年ははっきりしていません。
大和国出身で最初は筒井氏などに仕え、特に筒井順慶には重用されましたが、その後跡継ぎの定次とはソリが合わず辞めて浪人の道を選びます。
ですが、筒井氏に仕え名を上げていた彼には、士官の話が引く手あまたでしたが、これをすべて断り浪人生活を続けていました。

そのころ、石田三成も島左近の有能さを耳にしており、ぜひ家臣に加えたいと考え、早速誘いをかけますがやはり断ります。それでも島左近を家臣に加えたかった三成は、四万石ある自分の俸禄のうち二万石を与えると申し出たのです。
これは、超破格な待遇です。当時は一石で人間一人を一年養える米の量ですから、二万石とは今も昔も驚く破格です。
しかも、三成自らが何度も誘いをかけており、三国志で劉備玄徳が諸葛孔明の「三願の礼」に匹敵するほどです。島左近はそんな三成の熱意に感動し家臣になりました。このため「治部少(三成)過ぎたるものが二つあり 島左近と佐和山の城」と揶揄されたそうです。

渡辺勘兵衛とのエピソード

石田三成に仕えることとなる渡辺勘兵衛との面白いエピソードがあります。
豪傑(ごうけつ)な武将で評判だった渡辺勘兵衛という人は、柴田勝家や豊臣秀吉に、二万石を提示されても「十万石でなければ仕官しない」と断っていた大変な自信家でした。
ところが、勘兵衛はわずか五百石で石田三成の家臣になります。不思議に思った秀吉が、三成にどうやって説得したのか聞いてみると、三成は「私は五百石すべてを渡辺勘兵衛に与え、今私は彼の居候になっています。」と涼しい顔をして答えました。

そして三成は将来百万石を得た際には渡辺勘兵衛に十万石を与えると約束していました。
勘兵衛は三成から途中で何度も加増をオファーされても「三成様が百万石になるまでは」と断り続け、三成が亡くなった事で、生涯五百石で仕えたのです。
勘兵衛も関ヶ原の戦いに石田三成勢として奮戦し重傷を負ったすえに自害。勘兵衛は自害する前に、石田三成に会いにいき「そなたの十万石も夢となってしまった。」と嘆く三成に対してそれまでの恩義に感謝したそうです。

石田三成と茶々の関係性

石田三成と茶々(淀殿)の間にはほとんど接点はなかったようです。共通しているのは、出身地が近江国(現在の滋賀県)というぐらいです。
あえて考えられるのは、三成が茶々に対して、憎しみがあったのではないかと言うことです。
理由としては、三成の父・石田正継は、京極氏に仕えていた豪族でしたが、茶々の実家・浅井氏が京極氏を脅かしていたのではないかという説があります。
しかし、きちんとした資料が残されていないので、本当だったのかは分かっていません。

同じく関ヶ原の戦いでも、茶々が同じ近江出身だったことから、三成が率いる西軍を支持していた話は有名ですが、
実際に西軍に属していた主要な武将は、同じ近江出身の大谷吉継と長束正家ぐらいでした。
それに茶々の側近だった大野治長は、徳川家康が率いる東軍に属していたことから、茶々が西軍を支持していた話も、事実なのかは不明です。
また三成には正室もいましたし、側室を持たなかったことも知られています。何より三成の性格上、恩義のある秀吉の側室を奪うことなど思ってもいないでしょう。

三成と茶々の関係は、後世の人によって作られたうわさ話と言えるでしょう。

石田三成の最後

「関ヶ原の戦い」で敗北した石田三成は、伊吹山の東にある相川山をこえて春日村に逃れました。
東軍・小早川秀秋らの攻撃を受けて、三成の居城・佐和山城が落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族のほとんどが討ち死にしてしまいます。

なんとか逃亡していた石田三成は、家康に命令を受け捜索していた、田中吉政の追捕隊に捕縛され、大津城に護送されると、城門前で「生きさらし」とされ、その後家康と会見します。
大阪に護送され、小西行長らと共に、大阪の堺を罪人として引き回され、京都に護送後、奥平信晶の監視下におかれた。そして家康の命令で、六条、河原で斬首された。

三成の首は三条河原にさらされたあと、生前親交のあった春屋宗園に引き取られ、京都の大徳寺の三玄院に葬られました。

まとめ:石田三成は本当はいい人だった。だが戦国武将には成れなかった

石田三成は、とても不器用にしか生きられなかったように感じます。
ドラマや映画などで描かれている人物とは、まるで違います。
人付き合いも、人生も、戦も死ぬまでずっと豊臣秀吉を慕い秀吉のために生きようとして死んでいった。
忠義を不器用ながら貫き通した立派な人生だったと思います。