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【黒田官兵衛の年表】名言やエピソード・キリシタンや子孫まで解説

黒田官兵衛(黒田官兵衛孝高)は、豊臣秀吉の「軍師」として名高い武将です。
2014年にはNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも取り上げられ、その名を耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。
あらためて、キリシタンでもある官兵衛の、年表や逸話・エピソード、名言をもとに、生涯や人となりを解説します。

黒田官兵衛の年表【生涯・歴史年表】

西暦(年)出来事
1546年黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれる。幼名は万吉。
1562年父と共に17歳で初陣する。
1567年家督を継ぎ姫路城代となる。 正室として「櫛橋光(てる)」を迎える。
1568年長男・松寿丸(のちの黒田長政)誕生。
1569年青山・土器(かわらけ)山の戦いで姫路城を守り抜く。
1575年織田信長に謁見する。
1578年三木城攻めに参加する。
1578年有岡城の戦いにて幽閉される。
1581年鳥取城攻めに参加する。
1582年備中高松城攻めに参加する。 本能寺の変で織田信長が死去。
1583年頃キリスト教に入信する。
1585年四国征伐にて長宗我部元親の策を見破る。
1586年九州征伐で先鋒を務める。
1587年豊前6郡を与えられる。 バテレン追放令が発令される。
1589年息子・黒田長政に家督を譲り隠居する。
1590年小田原征伐にて交渉役を務める。
1592年文禄の役に従軍する。
1593年剃髪して「如水軒円清」と号する。
1597年慶長の役で次男・熊之助を失う。
1600年関ヶ原の戦いに際し九州の西軍勢力を破る。
1604年死去。享年59歳。

黒田官兵衛の死因と最期

京都伏見の屋敷跡

黒田官兵衛は1604年4月19日、京都伏見の屋敷で病死しました。
官兵衛は性病の一種である「梅毒」を患っていたともいわれますが、梅毒が直接の死因となったかは定かでありません。
官兵衛の辞世の句には「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
「思い残す言葉もなくついに死ぬ。道には迷わないだろう。自然の成り行きに任すよ」という言葉には、こだわりのない柔軟さが伺え、まさに「水の如き」人だったのかもしれません。

黒田官兵衛の逸話・エピソード

黒田官兵衛の人生の中で、最悪な状況に襲われたり、天才がゆえの苦労など、様々な逸話やエピソードがありますが、今回は特に有名なものとして

  • 幽閉後の官兵衛の逸話
  • 豊臣秀吉が官兵衛を警戒
  • 人生最後まで黒田家存続を気にしていた

この3つを紹介します。

幽閉後の官兵衛の逸話

1578年、織田信長に謀反を起こした荒木村重が、黒田官兵衛を捕らえるという事件が起こりました。
村重は説得に訪れた黒田官兵衛を投獄し、待てど暮らせど戻ってこない黒田官兵衛に、織田信長は寝返ったと早とちりし「松寿丸(黒田官兵衛の長男)を殺せ!」と命令します。

それから約1年後、官兵衛が救出されて、毒虫に刺されて全身がただれ、見るに忍び難い姿だったことなどから、信長や秀吉は事情を知り、秀吉は苦痛を耐えた官兵衛に、松寿丸が処刑されたことを平謝りします。

そんなとき、死んだはずの松寿丸がひょっこり顔を出したのです。
実は「官兵衛は寝返っていない」と信じた竹中半兵衛の機転で匿われ、その後「黒田長政」として活躍し、黒田官兵衛の跡を継ぎました。

豊臣秀吉が官兵衛を警戒

豊臣秀吉は黒田官兵衛の「頭の良さ」を警戒していたといわれています。
というのも「本能寺の変」が起こったとき、「天下をとる好機ですね」と秀吉にささやいたのは官兵衛だったのです。
事実、秀吉は誰よりも早く明智光秀を討ったことで主導権を握り、天下をとりました。

しかし晩年の秀吉は、官兵衛の能力を脅威に感じるようになり、大坂城からほど遠い豊前(福岡県東部)に領地を与えたうえ、「わしが死んだら、次に天下をとるのは官兵衛だ」と家臣に言いふらしたといいます。
秀吉に警戒されていることを悟った官兵衛は引退し、黒田長政に家督を譲りました。

人生最後まで黒田家存続を気にしていた

黒田長政

黒田官兵衛は最晩年まで、黒田家や息子・黒田長政のことを、気にかけていたといいます。
官兵衛が亡くなる前に「関ヶ原の戦い」が起こるなど、世情はまだまだ不安定で、諸大名は、豊臣家と徳川家のどちらにつくか迫られていました。
そのような中、家臣に慕われる官兵衛が亡くなることで、家中の統制が乱れてはいけません。

そこで官兵衛は死の直前一芝居ち、病に伏せる官兵衛は見舞いに訪れた家臣たちに、あたかも狂ったように見せかけ、息子・黒田長政を慕うように仕向けました。
さらに官兵衛は、家臣が自分の後を追って自殺しないよう厳命したのです。

こうした官兵衛の献身的な行動のおかげで、黒田家は健全なまま長政に引き継がれ、官兵衛の死後、黒田家は戦国乱世最後の戦いである「大坂の陣」を無事に乗り越え、福岡藩52万石の大名として江戸時代を生き抜きました。

黒田官兵衛は何をした人のか?

豊臣秀吉

黒田官兵衛は「豊臣秀吉に天下をとらせた人」といえるでしょう。
なぜなら、秀吉が天下人になるまでの、あらゆる場面で活躍するからで、官兵衛はもともと、播磨国の小寺氏の家臣で、中国地方の毛利家ではなく、織田信長に味方するよう主君を説得したところから、秀吉との関係が始まり、秀吉の指揮する毛利討伐軍の先鋒を官兵衛が務めることになります。

それ以降、官兵衛は参謀として三木城や備中高松城の攻略に貢献し、「本能寺の変」直後には、官兵衛に背中を押された秀吉が天下人への道を進み、さらには、四国征伐で敵方・長宗我部元親の策略を見抜いたり、九州征伐で豊前を攻略したり、小田原征伐で北条氏を降伏させたりと、凄まじい勢いでした。「豊臣秀吉の天下」は、黒田官兵衛なくして実現しえなかったかもしれません。

黒田官兵衛の名言

黒田官兵衛の名言で、人柄や官兵衛は何を思い、生涯を生き抜いたのかがわかる、名言として

  • 我れ人に媚ず、富貴を望まず
  • 総じて人には得手、不得手のあるものなり
  • 金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである

この3つを解説していきます。

我れ人に媚ず、富貴を望まず

「私は人に媚びず、裕福であることを望まぬ」と、私は決してイエスマンではありませんと言う意味です。
生涯に3度も謹慎処分を受けているにも関わらず、「もし権力者に媚びへつらう人であれば、処分を受けないよう振る舞うでしょう」とも、解釈する事も考えられます。
また官兵衛は倹約家として知られており、自ら率先して倹約に努めることで、家臣を触発すると同時に、蓄えた資金は困窮する家臣を救うために使っていたそうです。

総じて人には得手、不得手のあるものなり

「総じて人には得意不得意があるものだ」です。
官兵衛自身、取っ組み合いは苦手だったようですが、代わりに大勢を率いて多くの相手を倒すことは得意としていました。
「得意不得意をきちんと把握して力を発揮できる場に身をおく」
これは現代社会にも通ずる教訓と言えるでしょう。

金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである

官兵衛は「倹約家」であって「ケチ」ではありませんし、きちんと使うべきときには、惜しまず使っていました。
例えば「関ヶ原の戦い」に際し、長政が兵を率いて関ヶ原本戦に向かったため、地元を守る必要があり、官兵衛は貯めていた資金を使い、9,000人に及ぶ即席軍をつくり上げました。
そればかりか、官兵衛はこの9,000人で付近の石田三成派を撃破しています。

一説によれば、官兵衛は「関ヶ原の戦い」で、勝ち残った方を破り天下をとろうと考えていたそうで、お金を貯めるばかりでなく「使い時」を、官兵衛は、わきまえていたといえるでしょう。

黒田官兵衛はキリシタンだった(洗礼名ドン・シメオン)

黒田官兵衛は、キリシタン大名の小西行長に触発され、蒲生氏郷や高山右近の勧めで、洗礼を受けています。
洗礼名は「ドン・シメオン」。
「シメオン」とは「傾聴する」の意味で、官兵衛は洗礼名と号をローマ字にした「SimeonJosui」という印を使いました。
また「バテレン追放令」によって、キリシタンへの風当たりが強くなっても、信仰を続けたといわれています。
建前上は棄教したようですが、実際には他のキリシタン大名の遺臣を保護したり、キリスト教会への寄付を遺言しており、葬式はキリスト教式と仏教式で行われました。

キリスト教への信仰心を捨てなかったとみられる黒田官兵衛は、その背景にどのような思いがあったのでしょうか。

黒田官兵衛についてのQ&A

黒田官兵衛に関するちょっと気になるものを、Q&A形式で紹介。
今回は

  • 官兵衛はどんな人なのか?
  • 官兵衛の子孫は?
  • 黒田官兵衛の資料館について

これら3つを

官兵衛はどんな人なのか?

黒田官兵衛は切れ者で、秀吉には疎まれましたが、家臣にとっては「細かな配慮を忘れない名君」で、家臣や領民との信頼関係を大切にし、「臣下百姓の罰恐るべし」と自戒していたのです。
事実、声を荒げることは滅多になく、たまに激しく怒った後も「ちょっとした用事」を言いつけて後腐れのないよう工夫しています。
官兵衛は平時にも深い洞察力を発揮し、家臣や領民にとって過ごしやすい環境づくりを、心がけていました。

官兵衛の子孫は?

黒田家自体は現在も存続しています。
黒田官兵衛の長男・黒田長政は「関ヶ原の戦い」で東軍について戦果をあげ、徳川家康から筑前福岡52万石を与えられ、これを機に黒田宗家は、福岡藩主を代々務めていました。
しかし、官兵衛の直系・6代目の黒田継高の時代に、子供が相次いで亡くなってしまい、男系は途絶えてしまいます。
そして7代目に、徳川幕府8代目将軍・徳川吉宗の孫が婿養子として入りますが、その妻(継高の孫娘)も死んでしまい、黒田官兵衛の直系は女系さえも、途絶えてしまいました。
現在は黒田長高さんが、黒田家・16代当主を務めています。

黒田官兵衛の資料館について

「豊前国統治時の黒田官兵衛」をコンセプトにした「黒田官兵衛の資料館」
官兵衛の生涯や、人柄が良くわかるものなどが、展示されています。

所在地大分県中津市二ノ丁1273-2
営業時間9時~17時(夏季延長あり) 休館日:年中無
アクセスJR中津駅から徒歩約15分
入場料無料
駐車場最寄りの有料駐車場利用のみ

まとめ:黒田官兵衛は天才軍師と言われその名を後世まで残した

黒田官兵衛は類まれな「洞察力」「大局観」をもって織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑のあいだを渡り歩きます。
官兵衛の生きた戦国乱世は、一瞬の迷いが命取りになるシビアな世界であり、そんな中で、毛利ではなく織田をとり、秀吉に天下をとらせ、子孫が徳川の世でやっていけるよう「正しい判断」をくだしつづけました。
まさに「天才軍師」というにふさわしい官兵衛の生涯は、今もなお、人々を魅了していると言えるでしょう。