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源頼朝の性格は?政治やエピソードも交え解説【鎌倉殿の13人】第2弾

源頼朝の性格といえば、自身の立場を第一に考えて、物事を進める慎重かつ策略家な印象があります。
しかし、武士達が正当に評価される世をつくるために、鎌倉幕府を成立させ、政治を行いました。
様々な顔がある源頼朝ですが、ではどんな人物だったのか、解説していきます。

源頼朝の性格とは?

源頼朝は、物事を計画通り緻密に実行し、邪魔になる者は徹底的に排除する冷たい印象の性格が見受けられますが、実際は本当なのか、それとも違うのかを、わかりやすく解説していきます。

慎重な性格だった

源頼朝といえば、慎重であり、用心深い性格の印象がありますが、証拠を裏付ける文献が残されていないので、正確なところはわかっていません。
しかし頼朝は、平氏討伐に活躍した源義経・源範頼(みなもとののりより)が、自身の立場を脅かす存在だと思い込み処罰しています。
生きるか死ぬかの状況下で、自身についてきてくれた親族を普通ならば、今まで以上に、大切にしたいと思うのが人情というものです。
それでも、自身の立場、鎌倉幕府の組織発展に、降りかかる火の粉になりそうであれば、切り捨ててしまうところは、慎重であり用心深い性格と言えるかもしれません。

倹約家だと言われていた

源頼朝は、倹約家=ケチな印象に取れていますが、ただ単にケチというわけではありません。
「必要なところには使い、無駄なことには使わない」ということです。
まさに、この言葉を想像させるエピソードがあります。
それは、頼朝の側近が新調した高価な衣服で登場した時に、小袖を切り落とし、「そのようなところに、お金をかけるとは、財産管理の基本がなってない。身の程をわきまえろ!」と怒ったとのこと。
この質素倹約の気風は、鎌倉幕府の運営にも活かされており、頼朝自身が倹約家だと言われていたのは、本当のことだと思われます。
また頼朝を尊敬していた徳川家康自身も、質素倹約を、励行していたそうです。

策略家だったのか?

源頼朝は、戦略を練りながら実行する、策略家だと言えるかもしれません。
平氏を倒すためには、側近の武力だけでは厳しい状況だったので、戦い活躍した武士には、本領安堵という持っている土地の所有を保証し、新たに手に入れた土地を与える約束を交わしました。
そうすることで、関東の武士達を団結させて、武士団を結成し、源氏は平氏に戦いを挑むことになります。
頼朝は平氏に勝つ為にはどうするか、伊豆に流罪になっていた時から情報を仕入れ、様々なことから学び、長期的な作戦を練ってきたのでしょう。
そんな頼朝は、短絡的にその場の勢いで考える人物ではなく策略家だと考えられます。

源頼朝の人柄・人物像は?

源頼朝は、鎌倉幕府を成立させ、多くの人をまとめ上げた有能な政治家ですが、プライベートはどうだったのかを、解説していきます。

優れた政治家タイプ

源頼朝は歴史上、優れた政治家の1人として挙げられるのは、武士による政権、鎌倉幕府を立ち上げ、世の中を安定させた事実があるからです。
頼朝は、まず武力を背景に朝廷に取り入り、従う素振りを見せながらも実際は、朝廷を利用して、武士政権を樹立しました。
ではどのような制度・機構を作ったのか?

①地方組織の強化
「守護と地頭」地方の警察組織と税徴収組織
②中央集権制作り
「侍所」御家人の取締り
 政所 財務・政務を司る
 問注所 裁判所
③御家人との主従関係
 御恩と奉公 活躍したら褒美を与える

上記の内容から、頼朝は素晴らしい体制を作りました。
武士達をまとめ上げた、リーダーとの見方もありますが、むしろ、政治機構を作り、平和な世の中を実現させた政治家としての見方が、本当の姿と言えるでしょう。

戦は苦手だった?

源頼朝は、戦に関していうと苦手ではなく、自ら矢面に立ち、刀を振るうような戦い方はしない人でした。
元来、弓の名手なので功績を挙げようと思えばできる人ですが、前線ではあえて戦いをせず、むしろ後ろに下がり、部隊を編成し各部隊のリーダーに、指揮権を譲り任せていました。
頼朝は、各武士の性格・特性・強みや弱み等を細かく把握しており、適材適所に人員を配置する能力があったため、自ら前線に行くことがなかったと考えられます。

女性関係に問題ありの人物

源頼朝は、容姿端麗であり頭も良く、女性に優しい一面があった事から、何人もの女性と浮気をしています。
初めは、八重姫(やえひめ)です。
伊豆流罪の時に、監視役だった伊藤祐親(いとうすけちか)が京で任務をしていた時に関係を持ち、千鶴丸という男子を授かっています。
次は有名な北条政子です。
伊藤祐親から逃げる為に、駆け込んだのが北条時政の屋敷であり、又もや時政が京で任務をしている時に政子と関係を持ってしまいました。
それ以外にも愛していた女性が、亀の前(かめのまえ)・大進局(だいしんのつぼね)がいます。
当時、一夫多妻なので妾(めかけ)がいてもおかしくないのですが、政子が嫉妬深いため、危険をおかして浮気をしていました。
源頼朝は仕事は出来るかもしれませんが、女性関係には、だらしない一面があるようです。

源頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか

源頼朝は、朝廷に従うだけの武士のあり方を変える為、武士による政治をする為、鎌倉に幕府を開きました。
なぜ鎌倉だったのか、武士による政治とは何かを解説します。

なぜ鎌倉に幕府を開いたのか

源頼朝が、鎌倉に幕府を開いたのは、敵から攻められても、守りやすい地形の為です。
四方が山に囲まれていることによって、雨が降ると土が削られ、自然な谷ができ、敵から身を守れるお城になっています。
鎌倉の人々は、昔から谷あいに住むのが習慣となっているので、安全安心が保証された場所になり、海も近かった為、物資の運搬も盛んに行われたので、手に入る物も多かったと言われています。
さて、どうやって谷あいに行くかというと「切通し(きりどおし)と言われる道があって、大人1人が、やっと通れるかの道の狭さです。
慣れている鎌倉の人々には、散歩道みたいなものでしょうが、敵にとっては、やっかいな獣道に感じるでしょう。

武士による政治を始めた人だった

源頼朝は、武士が命をかけて、労力を費やしたことに対して、正当な評価を得られる仕組みを、実現したかったのではないでしょうか。
これまでは、貴族が土地を支配しており、武士が貴族の警護役をしていましたが、見合う報酬は与えられず、下っ端の立場に甘んじていました。
しかし次第に武士の力が増し、土地を支配するようになり、貴族と立場が逆転するものの、武家である平氏も、結局は貴族と、同じ真似事をしていただけです。
そこで頼朝は、土地を基軸とし、今持っている土地は保証し、成果を挙げたらそれに見合う土地を与える制度をつくりました。
これが「御恩と奉公」で、御家人が、将軍に戦で戦果を挙げるなどの奉公をし、それに対して将軍が、御恩として土地などを与えるという事を意味しています。
武士が活躍できる政治体制を初めて作り出したのが源頼朝だと言えるでしょう。

源頼朝に関するQ&A

源頼朝に関わりのある弟・源義経との関係や、妻・政子も頼朝に負けず劣らず、魅力ある女性です。
では、頼朝との関係性も含め、死因についても解説します。

弟・源義経との仲はどうだったのか?

源義経との仲は、あまり良くなかったと言われています。
なぜなら、源頼朝が好きではない朝廷に、気に入られていた事や、後白河法皇から平氏打倒の命令を受け、一ノ谷の戦い・壇ノ浦の戦いなどで、素晴らしい戦績を挙げていたからです。
更に、京の治安を守る警察の役職にあたる「検非違使(けびいし)」や、伊予国を管理する最上位の役職「伊予守(いよもり)」を、後白河法皇から拝受します。
頼朝にとっては、自身の預かり知らないところで勝手に朝廷と関わり、たくさん役職の任命を受けている義経に、自然と嫌悪感と憎しみのようなものが生まれたのかもしれません。
最終的に頼朝は、義経追放の命令をだし処罰しようと、考えるほど、2人の仲はよくありませんでした。

恐妻・政子とのエピソード

恐妻・北条政子と言えば、浮気した源頼朝の相手が住んでいた家を、怒りが収まらず壊してしまった。
このエピソードとは…
頼朝の浮気相手は、亀の前(かめのまえ)といい、頼朝が伊豆流罪の時に仕えていた侍女で、美しく性格もおっとりしていて優しい事から、頼朝は非常に気に入ったそうです。
始めは、亀の前を小中太光家の屋敷に住まわせ、由比ヶ浜にみそぎに行くなどと理由をつけて、会いに行きますが、段々欲が出たのか、頼朝の屋敷の近くに住まわす為に、伏見広綱の屋敷に亀の前を移住させます。

そんな折、政子の出産直後に父・北条時政の後妻である、牧の方(まきのかた)より、頼朝が亀の前と、浮気をしていると知らされ、政子は怒り狂い、牧の方の父・牧宗親に命じて、伏見広綱の屋敷を破壊させました。
亀の前は命からがら、大多和義久の屋敷に逃げ込み助かっています。
後に、日本の三大悪女と呼ばれる政子の性格が表れているエピソードです。

源頼朝の死因

源頼朝の死因には、様々な説があります。
有力なのが、落馬が原因で病を発症し亡くなった、又は落馬により怪我をして寝込んでしまい、亡くなってしまった。
落馬の原因はわかっていませんが、相模国(現神奈川県)にて、大掛かりな橋が完成した為、祝賀会に向かう途中でおきた出来事で、もし事実であれば頼朝にとっては、悔やんでも悔やみきれない話です。

<まとめ>源頼朝は慎重で倹約家と言われたが武士による政治を作った人でした

源頼朝は慎重であり、非常に警戒心が強いところがありました。
自身の立場が危うくなりそうな人物がいれば、親族であろうと処罰を繰り返し行う一方で、倹約家であり、必要性がないところには、無駄遣いを一切せず、いざという時の為に準備をしていました。
頼朝はあまり良い印象がないですが、武士達が正当な評価を得られる為に尽力し、朝廷を上手く納得させ、武士による政権を完成させる為に、鎌倉幕府を立ち上げた男気のある、有能な人物と言えるでしょう。