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三浦義村はどんな人物なのか?家系図や戦も含め解説【鎌倉殿の13人】第5弾

三浦義村は、祖父・父とともに、三浦家繁栄に尽力した人です。
「源平合戦」を中心に、数々の戦に参戦し功績も残していますが、かなりのやり手で上手く人を使い、自分の地位を確実に守るために、裏表の顔も持ち合わせていました。
今回は、義村という人はどのような人物で、何をしたのか、家系や戦、生涯も交えて解説していきます。

三浦義村はどんな人物なのか

三浦義村という人は、邪魔な人物は排除し、生き抜くためにはどんな手段でも使う、かなりの切れ者であり、計略家だと言われています。
そこで、義村はどんな人物なのかを解説します。

計略家で裏切りを重ねた人でした

三浦義村は鎌倉幕府の有力者を、次から次へと葬った計略家として知られています。

従兄弟である和田義盛(わだよしもり)を、裏切って滅亡に追いやった「和田合戦」では、義盛の子や甥が、謀反に加担した疑いで、北条義時に捕まったことをきっかけとして、三浦・和田の両氏は協力して北条氏を打倒する手筈になっていたのですが、義村は「和田義盛が挙兵の支度をしている」と義時に密告し、逆に和田氏を滅ぼしてしまったのです。
これは「本家の三浦氏を凌ぐ力をつけていた和田氏を潰すためだった」と考えられています。

さらに、一説によれば「三代将軍・源実朝の暗殺」を裏で密かに動かしていました。
当時、御家人たちは朝廷に接近する源実朝に反感を覚えていたとされ、そうした御家人の不満を背景に北条義時と三浦義村が実朝暗殺を主導したといわれています。

義村は、将軍や身内であろうと、自分が進むべく道で、脅威に感じるものは排除する人だったのかもしれません。

三浦家・繫栄の礎を築いた人物

三浦氏は義明(よしあき)・義澄(よしずみ)・義村の三代にわたり、鎌倉幕府のもとで繁栄しました。
一族繁栄のきっかけをつくったのが三浦義明です。
義明は、源頼朝が平家に対して挙兵した折、居城・衣笠城で平家方を迎え撃ちましたが、敗色濃厚とみるや「頼朝のもとで勲功を立てよ」と遺言して息子たちを脱出させ、自身は壮絶な討死を遂げました。
義明の思いは三浦義澄や義村に引き継がれ、三浦氏は瞬く間に成長します。
義澄は、頼朝への献策や平家追討戦を通じて信頼を勝ち取り、三浦半島にくわえて新たな領地を与えられたほか、「合議制」の1人に名を連ねるほどの地位を築きました。
つづく権力闘争のなかで、三浦氏は他の御家人を蹴落として、権勢を保つことに成功しますが、それは義村が北条義時に、協力する姿勢を維持し続けたことが、大きかったといえるでしょう。

三浦氏は、義明の死をきっかけに義澄が大きく成長させ、義村の絶妙な政治力で権力闘争を生き抜き、栄華を極めたのです。

三浦義村の家系図

三浦義村の戦年表

西暦合戦概要
1180年衣笠城合戦
(きぬがさじょうかっせん)
源頼朝の挙兵に参加しようとするも、川の増水で間に合わず居城・衣笠城に撤退。
籠城して平家方と戦うが、三浦義明の説得により義澄らは脱出し、敗走した頼朝のもとに向かう。
1180~85年治承・寿永の乱
(じしょう・じゅえいのらん)
源頼朝らによって平家が滅亡に追い込まれるまでの一連の合戦。
いわゆる「源平合戦」のこと。
三浦義村も全面的に参加したとされる。
1184年一ノ谷の戦い「治承・寿永の乱」のうち、木曾義仲に敗れた平家が勢力を回復し、源頼朝の軍勢と摂津国福原・須磨で衝突した合戦。
三浦義村が地蔵尊の導きに従って佐原義連らとともに坂を駆け下り、大勝利を収めたという伝承がある。
1205年畠山重忠の乱
(はたけやましげただのらん)
武蔵国の御家人・畠山重忠が北条時政の計略によって滅ぼされた事件。
三浦義村を含む御家人たちが鎌倉に集い、謀反を起こしたとされる重忠と激戦を繰り広げた。
事件後、幕府は「畠山重忠・重保父子の謀反はでっち上げだった」と発表し、義村が事件の首謀者を殺害する。
1213年和田合戦三浦義村が和田義盛の挙兵を北条義時に密告し、逆に和田一族を滅亡に追い込んだ事件。
義村は他の御家人とともに和田義盛と戦った。
1221年承久の乱
(じょうきゅうのらん)
後鳥羽上皇が北条義時討伐の兵を挙げる。
義村の弟・胤義は上皇に味方するが、義村は義時に加勢し、幕府軍の大将の一人として京都まで攻め上がった。

三浦義村の ゆかりの地

三浦義村の墓・福寿寺塔頭南向院跡

「三浦義村の墓」は、岩浦(いわぶ)山福寿寺南向院跡にあります。
福寿寺とは三浦義村が創建した寺院で、南向院はその支院にあたり、かつては一ノ谷の合戦で義村を勝利に導いた地蔵尊を「勝軍地蔵」として祀っていました。
現在、南向院は残っていませんが、福寿寺には義村の遺品が保管されていて、なかでも鞍には麻疹(はしか)を治す力があるといいます。

「三浦義村の墓・福寿寺塔頭南向院跡」・基本情報

所在地神奈川県三浦市南下浦町金田2062
営業時間特に無
拝観料無料
アクセス京急バス「岩浦(いわぶ)」下車、徒歩約5分
駐車場駐車スペースが限られるため、自動車での来訪は非推奨

三浦義村の屋敷跡

幕府有数の御家人だった三浦義村の屋敷は、大倉御所(源頼朝邸)からほど近い「西御門(にしみかど)」にありました。
西御門は「御所の西門」の意で、現在は横浜国立大学附属鎌倉小・中学校が建っています。
三浦義村の屋敷は、源実朝暗殺事件の実行犯である源頼家の子「公暁(くぎょう)」が殺害された場所でもあります。

「三浦義村の屋敷跡」・基本情報

所在地神奈川県鎌倉市雪ノ下3
営業時間特に無
拝観料無料
アクセスJR線・江ノ島電鉄「鎌倉駅」より徒歩15分
駐車場

近殿神社

「近殿(ちかた)神社」は、三浦義村を祀る神社です。
「衣笠城」や「三浦義澄の墓」、源頼朝が三浦義明のために建立した「満昌寺」もほど近く、近殿神社周辺は「三浦氏の故郷」ともいうべき場所であり、神社には三浦義村の木像が安置されています。

「近殿神社」・基本情報

所在地神奈川県横須賀市大矢部1-9-3
営業時間特に無
拝観料無料
アクセス京急バス「満昌寺」もしくは「大矢部三丁目」から徒歩5分
駐車場

三浦義村の最期と死因

三浦義村は、1239年12月31日(延応元年12月5日)に、脳卒中で亡くなりました。
生年が分からないため、正確な享年は不明ですが、1184年の平家追討戦の参加資格が、17歳以上だったという記録から逆算すると、亡くなったのは「70歳以上」と推測できます。
奇しくも北条義時亡き後、鎌倉幕府を支えた北条時房も、三浦義村の後を追うように没していて、人々は「承久の乱で敗れて島流しにされた、後鳥羽上皇の怨念ではないか」と噂したそうです。

三浦義村に関するQ&A

三浦義村の子供や兄弟・子孫、そして家臣はどうなったのかを、Q&Aで解説します。

三浦義村の子供と子孫は?

三浦氏の本家は、ほどなく滅亡し分家筋が、戦国時代まで続きました。
義村の死後、三浦光村(義村の次男)が「執権の代替わりを狙ったクーデタ未遂事件」に関与するなど、三浦氏と北条氏の関係は悪化し、ついに幕府宿老の安達景盛が、三浦泰村(義村の長男で当主)を襲撃したため、執権・北条時頼も三浦氏討伐の兵を挙げて「宝治合戦」と呼ばれる戦に発展します。
結果は、惨敗し三浦家と一族郎党500名近くが自害し、滅び去ってしまいます。

ただし、三浦義村の娘である「矢部禅尼」の子ども(佐原盛時)は、北条氏に味方したため、滅びた本家に代わって「三浦氏」を継承しています。
佐原盛時により、三浦氏は戦国時代まで存続し、のちの「北条早雲」によって攻められ「三浦氏は北条を名乗る武士に二度も滅ぼされる」という、数奇な運命をたどることとなりました。

三浦義村の兄弟は?

三浦義村の弟・三浦胤義(みうらたねよし)は、「承久の乱」で自害しています。
後鳥羽上皇が北条義時に対して挙兵した「承久の乱」の際、北条氏に味方した兄・義村とは対照的に、弟・胤義は上皇に味方しました。
なぜなら、胤義の妻がもともと「二代将軍・源頼家の側室」で、「先夫や息子を北条氏に殺され悲しむ妻が不憫だったので、鎌倉幕府に弓を引いてやろうと思った」という男気あふれる参戦だったのです。
胤義の意志は非常に固く、乱が幕府軍の圧勝に終わったのちも粘り強く抗戦を続けますが、妻子に会おうと京都・太秦の「木嶋(このしま)神社」に向かったところを包囲され、1221年7月6日(承久3年6月15日)に自害して果てました。
「陰謀家」の兄と「男気」の弟……三浦義村と胤義は、対照的ともいえる兄弟だったのです。

〈まとめ〉三浦義村は敵味方関係なく裏切りを重ねた人物でした

三浦義村は、陰謀が見え隠れするところに必ず姿を現す人物でした。
「三浦の犬は友を食らう」と皮肉られ「陰謀家」のイメージが、浸透していたようです。
しかし、三浦氏が義村の代で最盛期を迎えたことを考えれば、一族を守るための抜群な政治的センスがあったのかもしれません。
犬は犬でも、権力に「媚びる犬」ではなく、時世を正確にとらえる「したたかな犬」だったと言えるでしょう。