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三浦義澄とは?人物や戦・家族も含め生涯を解説【鎌倉殿の13人】第6弾

三浦義澄は非常に誠実な方であり、源頼朝に付き従い鎌倉幕府の成立に尽力しました。
鎌倉殿の13人の一人として、年老いても率先して戦い、戦果をあげた非常に真面目な人であり、その結果、北条家に次ぐ、有力な御家人まで登りつめました。
今回は、三浦義澄の妻や子供たちがどうなったのか、三浦義澄の生涯についても、解説していきます。

三浦義澄はどんな人なのか?

三浦義澄は「鎌倉殿の13人」の一人として、鎌倉幕府を支え続け、魅力のある人物として、周りから尊敬されると共に、源頼朝からの信頼も得ています。
そこで三浦義澄は具体的にどのような人なのか、

  • 三浦義澄のプロフィール
  • 「鎌倉殿の13人」の1人
  • 宿老(しゅくろう)になっても第一線で活躍

この3つについて解説していきます。

三浦義澄のプロフィール

  • 【生年月日】大治2年(1127年)
  • 【出身地】相模国三浦郡(現在の神奈川県横須賀市)
  • 【別名】荒次郎
  • 【位】三浦介・相模守護・鎌倉幕府合議制の1人
  • 【氏族】桓武平氏・三浦氏
  • 【両親】父:三浦義明 母:秩父重綱の娘
  • 【兄弟】杉本義宗・大多和義久・佐原義連・多々良義春・長井義季・杜戸重行
  • 【妻】伊東祐親の娘
  • 【子供】三浦友澄・三浦義村・三浦重澄・三浦胤義

「鎌倉殿の13人」の1人

三浦義澄は、幕府における御家人の中でも筆頭格であり、重要な立場にいました。
義澄は、鎌倉幕府ができる前から源頼朝に仕え、平氏を倒す為に命をかけ、実績を積み信頼を重ねてきた結果「鎌倉殿の13人」の1人となります。
また中でも1番象徴的なのが、源頼朝が朝廷から鎌倉幕府の征夷大将軍の任命を受けた時、三浦義澄は鶴岡八幡宮(現・神奈川県鎌倉市)にて大将軍の任命書を、勅使から受け取る大役を果たしたのです。
これはまさしく、源頼朝からの信頼が厚いと言えるでしょう。

宿老(しゅくろう)になっても第一線で活躍

三浦義澄は宿老になった後でも、第一線にて活躍しています。
源平合戦で平家を滅亡させるために、「一ノ谷の戦い」や「壇ノ浦の戦い」など、年齢を感じさせない泥臭い戦いを自ら行い、平家滅亡に非常に貢献した人物でもあります。
そして鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で起こった「奥州合戦」にて、戦果をあげて100年にわたり、陸奥出羽両国にて、君臨してきた藤原氏を滅亡に導き、源頼朝と共に鎌倉幕府の発展に尽くしました。

三浦義澄「源平合戦」での活躍

源平合戦

三浦義澄は「源平合戦」のどの戦いにおいても活躍しています。
特に「富士川の戦い」においては、上総氏(かずさし)や千葉氏、平氏側の畠山重忠にも協力を要請し、仲間に加えたことで、4万もの大軍勢になったのです。
決戦となった、駿河国(現静岡県中部)にある富士川を挟んで、向かい合った平維盛(たいらのこれもり)は、あまりに多い軍勢を見て、戦わずして撤退したことから、義澄が味方作りに奔走(ほんそう)したおかげで、勝てたとも言えるでしょう。

他にも、「一ノ谷の戦い」では、源範頼(みなもとの のりより)に従いながら、平家の逃げ道を無くし、追い込みをかけた功績もありますし、「壇ノ浦の戦い」は、源義経が率いる水軍の先陣を切り、突破口を開くなどして、大活躍を成し遂げます。
「源平合戦」では、三浦義澄の活躍が非常に目立ち、活躍に対して源頼朝からは、本領安堵をしてもらい、かつ新しい土地も手に入れることになりました。

三浦義澄の家族は?

三浦義澄の家族といって、一番始めに浮かぶのは、三浦義村ですが、他の家族や子孫はどんな人がいるのか?
では、具体的に

  • 妻はどんな人なのか
  • 子供たちは?
  • 子孫は存続しているのか?

これら3つについて解説していきます。

妻はどんな人なのか

三浦義澄の妻は、伊藤祐親(いとうすけちか)の、次女と言われています。
義澄と正室・伊東祐親次女との間には、幕府の重臣として暗躍した嫡男・三浦義村を儲けています。
また、義澄には子供が7~8人位いるとのことで、側室がいた可能性がありますが、正室・側室ともに、公的な資料がないため、はっきりとしたことは、現在でもわかっていません。

子供たちは?

三浦義澄の子供は、わかる範囲内で5人の男子がいます。

  • 嫡男・三浦義村
    義澄の後継者となった、三浦義村ですが長男か次男か不明で、通称は平六と言われています。
    義村が活躍したのは、源頼朝の死後で幕府の内乱にて上手く立ち回り、重鎮達が罰せられる中、北条氏ともうまく付き合い、結果、三浦氏を北条氏と並びうる巨大な一族にしました。
  • 次男・山口有綱
    義澄の次男と言われており、相模国:三浦郡山口(現神奈川県の郡)で、勢力を誇っており、「吾妻の鏡」によりば、源頼朝が上洛する時に付き添い、行動を共にしたと書かれています。
  • 義澄の子息・大河戸重澄(三浦重澄)
    武蔵国(現関東方面)を治めていた、大河戸氏の娘婿と言われています。
    「吾妻の鏡」によると、源頼家に付き添い従ったと書かれており、名前は太郎と、呼ばれていたそうです。
    三浦義村の庶兄(しょけい)腹違いの兄の可能性があるかもしれません。
  • 義澄の四男・三浦胤義(みうらたねよし)
    義澄の末子だと言われています。
    胤義は、源頼家の側室の娘を正室と迎えましたが、子供を北条氏に殺されてしまい、恨みを抱き
    打倒、北条氏となりますが、承久の乱で破れ、胤義は自害することになり、子供達も処刑されるという残酷な結末になってしまいました。
  • 義澄の息子・三戸友澄
    通称が「十郎」だったことから、三浦義澄の十男、又は、名前が不明な長男の可能性があり、吾妻鏡等には、名前がないので、実在する人物かはっきりしない部分があります。

子孫は存続しているのか?

三浦義澄の子孫は、江戸時代末期の明治維新あたりまで、存続していました。
吾妻の鏡には、三浦義村の子である三浦家村が、宝治合戦後に行方不明になったと記されており、家村は、宝治合戦後に血統を残すよう説得されていて、三河国へ向かったと伝え残されています。
しかし、その後の足取りはわからないままで、後継者として三浦正重が三浦家当主となり、徳川将軍秀忠に仕え、政治の中枢に戻りました。
そして三浦秋次が、江戸時代に美作国勝山藩(岡山県真庭市)の初代藩主となり、明治維新まで名を残しています。

三浦義澄の家紋

三浦三つ引両紋

三浦義澄の家紋は「引両紋(ひきりょうもん)」を用いた「三つ引両(みつひきりょう)」です。
引両紋とは、龍をなぞった紋で、龍が1つなら「一つ引両」、龍が2つなら「二つ引両」というものであると言われています。
龍は中国の神話・伝承や、造形美術にみられる想像上の動物を指すが、日本では雨の神として、尊敬されており、家紋となったのも、龍の霊力にあやかろうとした意味があったかもしれません。

家紋とも関係がある三浦氏の陣幕は、黄紫紅(きむらご)の三色に分けられたもので、三浦の「三」の文字を表したものとも言われており、それが三浦義澄家紋の「三つ引両」になったと考えられます。

三浦義澄の死因とお墓

三浦義澄の墓

三浦義澄の死因は、病が原因であると言われており、1200年に76歳で亡くなりました。

三浦義澄の墓がある「薬王寺(現清雲寺)」は、和田義盛が、父である義宗と叔父の義澄を、弔う為に建立したと言われています。
1876年(明治9年)に廃寺となり、現在は義澄だけの墓が残されていて、五輪重ねの塔が義澄の墓と言われ、最下段の石には梵字(お墓や位牌に刻まれる文字)が刻まれています。

《薬王寺(現清雲寺)の基本情報》

所在地神奈川県横須賀市大矢部1丁目13
営業時間特に無
拝観料無料
アクセスJR衣笠駅よりバス 「満昌寺」バス停下車 徒歩8分
駐車場

三浦義澄に関するQ&A

三浦義澄について、知って得する情報をお届けします。
今回のQ&Aは、

  • 三浦義澄と三浦半島
  • 三浦家 先祖
  • 和田義盛との関わり

この3つついて紹介します。

三浦義澄と三浦半島との関わり

三浦義澄は、三浦半島中央部に位置する、衣笠城(神奈川県横須賀市)を拠点として、三浦半島における海上交通の利権を全て握っていました。
始まりは、三浦義澄の祖先が桓武平氏であり、祖は平為道といわれており、「前九年の役(ぜんくねんのえき)」で軍功を挙げ、功労として相模国三浦郡を与えられた事が、関わりの発端となったのです。

義澄の父である三浦義明は、相模国の在庁の役人として国の公務をしており、大いに活躍しています。
そもそも役人になれるのは、地方の土地を持っている豪族だけで、義明も先祖から土地を引き継ぎ、その息子である義澄も引き継いたことで、三浦半島をおさめる事になりました。

三浦家・先祖は?

三浦家の家系は諸説がありますが、「系図纂要」によると、平為通が源頼義から、相模国三浦郷を与えられたのが始まりとのことです。
また他の説としては、平為通の大伯父・平忠輔が、三浦氏の先祖だとも言われていますが、忠輔の子孫には、男子が産まなかった為、為通の子孫がそれを引き継いたそうです。
そして、三浦半島中央部に位置する衣笠山に衣笠城を建て、三浦氏の礎を築きましたが、ただ三浦氏の家系図が何種類もあり、為通について記載がないものもあるため、平為通の実在を疑う説もあります。

和田義盛との関係性は?

和田義盛

和田義盛(わだよしもり)は、「13人の合議制」の一人であり、三浦義澄の叔父にあたります。
義盛は、源頼朝に従い初期の頃から共に戦い、様々な合戦で活躍したことで知られる御家人で、非常に優秀な武士で、政治の面でも才能があり、鎌倉幕府の初代「侍所別当」(さむらいどころべっとう)も任されるほど、頼朝からの信頼も厚かったそうです。

また義盛は、相模国三浦郡和田の里を支配していたので、和田姓を名乗っていますが、正統な三浦氏の一族になります。
本来、嫡男筋だったのですが、父である杉本義宗が、三浦氏を継ぐ前に亡くなってしまったため、血統は、弟の義澄に渡り、義盛は最終的に「和田合戦」にて滅びてしまう、悲しい結末になってしまいました。

<まとめ> 三浦義澄は鎌倉殿の一人として戦に明け暮れた人でした。

三浦義澄という人は、源平合戦において、常に何事も率先して戦い、他の御家人達の見本となる姿を見せていました。
源頼朝は義澄を非常に信頼しており、重要な行事に関しては常に追従させ、物事を任せたりさせていたり、義澄自身も忠誠心が強く、老齢になっても尽くし、頼朝の死後も鎌倉殿の一人として、反乱が起きれば、老体にムチ打ちながらも、戦いに向かっています。
三浦義澄は源頼朝の為に生き、平和な世をつくる為に戦いに明け暮れた人でした。


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