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直江兼続の兜の「愛」の意味とは?エピソードや伝説についても解説

直江兼続は、「愛と義」に生きた武将です。
上杉景勝を慕い生涯をかけて、支え続けてきました。ただ単に強かったわけでもなく、豊臣秀吉からも最高の参謀として賞賛されたり、領民と共に苦楽を分かち合う魅力的な人物でした。
今回は、兜の「愛」の意味や伝説的なエピソードも含め解説していきます。

直江兼続の兜がなぜ愛なのか?

直江兼続の兜の愛は、現在の私たちが思う、愛の意味合いとは違うようで、兼続が信仰していた神の、愛染明王(あいぜんみょうおう)・愛宕権現(あたごごんげん)から、頭文字の愛を使いました。
ちなみに「愛染明王」とは、真言宗の密教の教えの神・愛欲を本体とする愛の神で、「愛宕権現」は、山岳信仰と修験道が融合した神で、全国にある愛宕神社に祀られています。
また、尊敬していた、信仰心のある上杉謙信が、毘沙門天の頭文字の昆を、旗頭に使っていたことから、それを見習ったのでしょう。
神の文字を掲げて戦うことは、眠っていた自身の潜在能力が発揮されると感じていたのかもしれません。

直江兼続の甲冑とは?

直江兼続の甲冑は「金小札浅葱糸威二枚胴具足」(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく)と言われています。
ではこの甲冑「金小札浅葱糸威二枚胴具足」の意味は、
まずは、鎧の構造をなす部分である「小札(こざね)」とは、長方形の鉄板で出来ており、小さな穴がいくつもあり、そこに、糸や皮製の紐を縫い付け、鎧の胸部を作ってできていて、そこに金の文字が付いている「金小札」は、金箔が押されたものが、使われているからです。
「浅葱縅(あさぎおどし)」とは、薄水色の糸で綴じ合わせているということのようです。
「二枚胴(にまいどう)」は、前と後ろの銅の鎧が別々で構成されており、2枚あることから二枚胴と呼ばれています。
このようにかなり凝った作りから、文化にも精通している兼続の、品格が現れた甲冑と言えるでしょう。

直江兼続と前田慶次の関係は?

直江兼続と前田慶次の二人の関係は、筆頭家老と上杉家に待遇され招かれた武将です。
いわゆる武士の上下関係ではなく、友人関係に近いのでしょう。

この二人の関係性が伺えるエピソードがあります。
それは、関ヶ原の戦いにて、西軍側についていた、兼続が戦の負けを知った時、兼続は、「上杉家が負けたのは、自分のせいだ!」という責任から
自害しようとしました。しかし自害しようとした兼続を慶次が説得し、上杉家のために生き続けることを決心した兼続は、自ら殿(しんがり)を務め、歴史に残る撤退戦を繰り広げました。

その後の兼続と慶次は、上杉家の減移封(げんいほう)により、会津から米沢に移り住み、兼続は内政に務め、慶次は隠居生活をしていました。
度々兼続は慶次のもとに訪れ、終生交流が続いていたようです。

直江兼続のゆかりの地

直江兼続のゆかりの地として、現在の米沢市に多大な貢献を残したました。
それは大河ドラマで、兼続を取り上げた事で、観光地としても人々が訪れています。
そこで、特に兼続と関わりのあるゆかりの地として

  • 上杉神社
  • 法泉寺
  • 直江石堤

この3つを紹介します。

上杉神社

直江兼続が尊敬している上杉謙信、そして上杉鷹山を神として祭る為、米沢城本丸跡に建てられました。
明治35年に別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)明治政府が決めた神社の格付け。国に貢献した人物を祭る神社に決められた。

所在地山形県米沢市丸の内1-4-13
営業時間春夏秋 6:00~17:00  冬 7:00~17:00 ※稽照殿は9:00~16:00
料金拝観料大人400円
アクセス米沢駅からバス「上杉神社前」下車
駐車場松が岬おまつり広場駐車場、300台程

法泉寺

法泉寺は、直江兼続が建てたお寺です。
兼続は、法泉寺の中に寺子屋をつくり、九山禅師を先生として、米沢藩士の教育をすることを指示しました。
名は学問所「禅林文庫」とし、兼続亡き後は、上杉鷹山が作った興譲館(こうじょうかん)へ伝承(でんしょう)され、今でも残っています。
また、資料も文化財として、大切に保存されているそうです。

所在地山形県米沢市城西2-1-4
営業時間見学:春夏秋 降雪期は積雪のため見学不可
アクセス米沢駅からバスで20分

直江石堤

直江兼続は、米沢に移り住んだ時に、よく氾濫する川であった「松川」(現・最上川)を、何とかして氾濫を起こさないようにするために、最長10kmに及び、谷地河原堤防と蛇堤を造りました。
ちなみに、蛇堤とは、河原石を横にならべて積み上げるいわゆる、石垣造りの型です。
堤防を造るにあたり、兼続は率先して行動したことで、部下の武士たちも、その意気を感じみんなで造り上げたものです。
現在は公園として、憩いの場所になっています。

所在地山形県米沢市大字赤崩
営業時間散策自由
定休日無休
料金無料
アクセス公共交通:JR米沢駅→車20分
車:東北中央道米沢八幡原ICから県道151号経由7km15分
駐車場あり/45台まで

直江兼続の逸話・エピソード

直江兼続は、一辺倒の真面目な面もあれば、庶民の立場に立てる優しい面もあります。
また、激しい熱情があふれる魅力的な人物とも言えるでしょう。
では、兼続にまつわる逸話・エピソードとは

  • 直江状のエピソード
  • 石高が減っても家臣を守った
  • 直江兼続が出した閻魔大王への手紙とは

これら3つについて解説します。

直江状のエピソード

直江状とは、兼続の主君・上杉景勝が、徳川家康の理不尽な命令を受け、家康は今で言えば常務のような立場なので、敬語を入れつつ、皮肉たっぷりな断る手紙を送ります。
これが世にいう「直江状」です。

では、なぜこのような経緯になったのか。
それは、豊臣秀吉の亡き後、徳川家康は天下を取ろうとあからさまに動きだします。
そんな中、「上杉家が戦準備の疑いあり」との報告を受け、家康は怒り「すぐにでも自分の城に来い」と命令文を送ります。
これに対して直江兼続が上杉景勝の正当性、妥当性、本当に城を補修している事実等を書いておりますが、文脈からは、家康に対して、負けん気を示していたようです。

そもそも家康は、上杉家が邪魔で、何か理由を付けて、上杉討伐をしたかったのかもしれません。
ここまで、家康相手にできるのは、なんとも兼続らしいと言えるでしょう。

石高が減っても家臣を守った

自分が尊敬していた上杉謙信は仏教を深く信仰していました。
仏教では、互いに助け合いながら、支え合う信仰です。
謙信は「毘沙門天の化身」として、武人として立派ながらも、弱い人には優しい武将でした。
ちなみに毘沙門天は仏教の武神でもあります。
それを見習っていた直江兼続は自分も上杉謙信のように、人々を守るんだ!という想いが強かったはずです。
愛染明王を信仰する兼続は、そういった想いから、家臣を守る為に内政の戦いに励み、藩の建て直しに努めました。

直江兼続が出した閻魔大王への手紙とは

直江兼続が、閻魔大王への手紙出すこととなった出来事とは、上杉家臣の三宝寺勝蔵(さんぽうじ しょうぞう)が、下人を斬ってしまうという事件が、起きてしまいます。
戦国時代や江戸時代でもあった、武士の気に入らないことがあれば、領民を簡単に切ってしまう「切り捨て御免」が当たり前でした。

しかし、下人の遺族は遠慮なく「生き返らせろ!なんとかしろ!」と言いたい放題で、兼続は誠心誠意に対応し続け、上杉家の不始末として遺族に謝罪し、お詫びとして、銀二十枚の支払いを勝蔵に命令しました。
それでも、遺族は納得してくれず、さすがの兼続も悩みと怒りを覚え決断します。
その取った行動は、死んだ者を連れ戻すには、迎えをだす必要があると、遺族に、閻魔大王への手紙を渡し、「迎えに行ってくれ」と首を刎ねてしまいます。
普段は温厚な直江兼続ですが、怒ると怖い一面もあり、いかにも、武士らしいエピソードです。

直江兼続の伝説とは?

直江兼続が後世にこれだけ、有名になり、魅力的な人物として描かれるのは、実績含め、人を惹きつけるものがあったからでしょう。
徳川家康からも、見事な戦略と言われるほどでした。
では、具体的にどんな伝説があるのか?

  • 直江兼続は強かったのか?
  • 内政が得意だった

このことについて解説します。

直江兼続は強かったのか?

直江兼続は武将として、上杉景勝の参謀として尽力し、敵からも、「あっぱれ!兼続」と言われた、伝説の引き返しの殿(しんがり)を務めた功績が伝え残されています。
それは兼続が、豊臣秀吉亡き後、石田三成と密かに、徳川家康を西から東から、挟み撃ちにする計画を練っていたことです。

まずは、徳川家康と協力関係にあった北の最上氏を討つべく最上領に侵攻を開始しますが、上杉家の圧倒的な兵力で攻めこんでも、最上氏が粘り強く、長谷城を落とすことができません。
そんな中、石田三成が徳川家康に敗れたと知り、撤退することになりました。
普通であれば負け戦になったことで、頭が混乱し、目の前の戦いに勝算もなく突っ込んでしまいがちですが、兼続は冷静に判断をしながら、引き返しの殿(しんがり)を務め、自分の味方を無事に返すことができました。
このことから、戦の強さよりも、判断力やいかに冷静に物事を見る力の方が強かったと言えるでしょう。

内政が得意だった

直江兼続が得意としていたのは、内政でした。
人の調和を取りながら、今で言うアイデアマンであり粘り強く物事に取り組みながら、裏方の仕事していました。 
特に著しく取り組んだのは、豊臣秀吉が天下を取ってからです。
主なものは、
「新田開発と 石高を増やす」新田開発とは、直江兼続が開墾のため優遇策や既存の田畑を保護するための政策のこと。
「朝日軍道の整備」2000m級の朝日連峰を通る軍事道路で、全長65kmにのぼる山岳縦貫路を造りました。
他にも、産業の発展や鉱山の開拓をするなど、さまざまなことに取り組みました。

直江兼続の城は?

直江兼続が居城としていた、与板城です。
元々は、本与板城を居城としていましたが、直江兼続の妻であるお船の父が、与板城主だったのですが、
上杉家の古参の家臣であった直江景綱は、上杉家の家督争いの御館の乱(おたてのらん)に巻き込まれ、殺害されてしまいます。
景綱には、男の子供がいなかったので、お船に婿をとり、景綱の後継者として、適任だったのが兼続だったのです。
これらの経緯から、兼続は与板城に移り城主になりました。

所在地新潟県長岡市与板町与板乙835
営業時間24 時間営業
アクセス長岡駅大手口バス停12番線より与板バス乗車「上与板バス停」下車 
与板城入り口まで徒歩10分
駐車場有り 16台

直江兼続の死因とお墓

直江兼続は、亡くなる3年前ほどから体調を崩していましたが、そんな状態にも関わらず、徳川秀忠の上洛に付き添そい、さらに悪化し江戸にて、60歳で生涯を終えます。
なお、死因は病死とされており、詳しい資料は残っていません。

お墓は当初、米沢の徳昌寺に埋葬されますが、徳昌寺と林泉寺の間で争いがおき、徳昌寺が廃寺になったため、東源寺に祀り直しをします。
その後、藩庁の指示のもと、米沢市内ある林泉寺に祀られるようになりました。

直江兼続に関するQ&A

直江兼続は、人との繋がりや関係性の中で成長してきました。
兼続の人生において一番関わりのあるのが、上杉家。
では兼続にとってどれだけ影響を与えられたのか?具体的なものとして

  • 上杉謙信との関係
  • 直江兼続の愛刀は?
  • 直江兼続の家紋は?

これら3つについて解説します。

上杉謙信との関係

直江兼続と上杉謙信は、事実上関わりあったという文献は残っていません。
ですが兼続は、上杉景勝の近習をしていたことから、謙信との関りはあったと思われます。
実際に兼続が小さな時から、上杉謙信の振る舞いを見る中で尊敬し、憧れの存在となっており、兼続が兜に愛の文字をあしらったことも上杉謙信の影響なのは明らかです。
あくまで噂ではありますが、謙信が男色家だったので、兼続はその相手の1人だったと言われています。
ただ、明らかなのは、兼続は謙信をお手本として戦いのイロハを学びましたし、何よりも人生の道を教わったことから、この2人の関係性は、同じ武士同士というよりも、師弟関係に近いかもしれません。

直江兼続の愛刀は?

直江兼続の愛刀である水神切兼光(すいじんぎりかねみつ)というものです。
上杉家に、代々伝わってきた伝統ある刀で、上杉景勝より拝領し、愛刀ととして使用してきました。
実はこの刀には、ある逸話が残されています。
米沢領内にて、洪水による川が氾濫し、土手をこわし土地にまで水が溢れでようとした時に、水神を斬ったことで氾濫がおさまったというのですが、実際のところは、刀を立てて、祈願したとも言われています。
しかし、「水を切った」「刀を立てた」にせよ、氾濫が収まったのは事実です。
それだけ水神切兼光は、逸話が残されるほど、名刀だととも言えるでしょう。

直江兼続の家紋は?

直江兼続の家紋は「三つ盛亀甲花菱(みつもりきっこうはなびし)」です。
亀甲紋(きっこうもん)は、北方を守護する亀を表している紋で、兼続の家紋の意味として「亀甲に三つ葉」と「亀甲に花菱」の、2つがあります。
花菱柄は、鎧や位牌で使われているが、三つ葉柄は、肖像画でしか使われていないです。
その肖像画は1度焼失し、江戸時代に書き直されました。
家紋の意味合いが2つありますが、可能性としは、花菱紋の方が強いと思われます。

<まとめ>直江兼続は君主を慕い「愛と義」で生きた人であった

直江兼続は上杉景勝を君主を慕い陰に陽にと、支え続けた誠心誠意の人物です。
徳川家康が天下を取り動き出した時も、景勝を守り、上杉家の安全を第一に考え行動しきました。
関ヶ原の戦いに破れ、領地も没収され、貧しくなった時は領民の幸せを考えて、寄り添いながら共に動きました。
いわゆる損得や自身の栄達・名誉で動くわけでなく、「愛と義」を大切にした人と言えるでしょう。