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斎藤道三の死因と壮絶な最後!生涯年表や家系図も含め徹底解説

「美濃のマムシ」の異名で下剋上を果たし、美濃国の大名へと成り上がっていった斎藤道三。しかしその最後は息子に討たれ、壮絶な死を遂げました。
今回は、一介の油売りだった斎藤道三がどのようにして戦国大名へなったのか。
そしてなぜ、最後は息子に討たれてしまったのか。
織田信長や明智光秀との関係をひも解きながら、63年の斎藤道三の生涯について解説します。

斎藤道三について簡単に解説

斎藤道三は、戦国の下剋上の世を代表する武将として有名ですが、では道三について、実際はどうだったのか。
具体的なことは

  • 生い立ち
  • 『美濃のマムシ』といつから言われるようになったのか?
  • 明智光秀とは親戚だった

これら3つについて解説します。

生い立ち

斎藤道三の生まれや幼少期には諸説があり明らかではありません。
出生年は1494年とも1504年とも言われ、生まれは美濃国という説もあれば、山城国という説が有力とも言われています。
幼少期に京都で僧侶となり、その後、美濃国へ行き、油商人として成功します。
そして更には、武士になろうと一念発起した道三は、美濃国守護・土岐氏の老臣である長井長弘(ながいながひろ)の家臣となることができました。
また、持ち前の武芸と知略で頭角を現し、土岐氏の次男・土岐頼芸(ときよりあき)の信頼を得ることなり、その後斎藤をのっとり、土岐氏を追い出し、美濃の国主まで上り詰めました。
斉藤道三の出世物語は、父との二世代で成されたという説も近年有力とされています。

『美濃のマムシ』といつから言われるようになったのか?

斎藤道三は、出世の階段を上がる度に名前を変えており、道三という名前は、隠居で出家した際に、名乗った最後の名前です。
さて、マムシとは毒蛇であり、親の体を食い破って生まれてくると信じられていたことから、次々と主君を乗っ取った道三の国盗りの姿が、まるでマムシのようだと形容されたと言われています。
しかし、その形容は、道三が健在の頃からのものではなく、近現代の坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により生まれたとされています。

明智光秀とは親戚だった

斎藤道三には、1532年に迎えた小見の方(おみのかた)という正室がいました。
この小見の方が、明智光秀の父親・明智光綱(みつつな)の妹、つまり、光秀の叔母にあたります。
そして、道三と小見の方との間に生まれた娘が濃姫、別名・帰蝶(きちょう)であり、織田信長の正室となる女性です。

斎藤道三の死因と最後は?

斎藤道三の死因と最後は、息子・斎藤義龍(よしたつ)との戦い、長良川の戦いでの戦死です。
1554年に道三は、嫡男・義龍に家督を譲り隠居するも、この背景には、無理な国盗りを実行してきた道三への家臣達の不信感もあり家督を譲ったと考えられます。

隠居後の道三は、義龍だけに罵声(ばせい)を浴びせたり、弟たちを溺愛し厚遇する傾向を強め、義龍の廃位を画策したという説まであります。
このような父と弟たちの動きに警戒感と不信感を強めた義龍は、弟たちを暗殺。父・道三と対立することとなり、戦へと発展させてしまいました。

長良川の戦いでは、義龍軍17500名に対し、道三軍2700名と圧倒的劣勢に追い込まれた道三。
最期は息子・義龍の有能さを思い知り後悔しながら、斬首され戦死するという壮絶な最後に至ったのでした。

斎藤道三の息子・斎藤義龍との不仲説

斎藤道三と息子・義龍との親子関係の確執は、純粋な下剋上の問題とも言われていますが、確執の原因として諸説あります。

  1. 政治の実権:義龍が家督を譲られた後も、道三が政治実権を握り続けていたとされます。
  2. 道三の義龍への評価:道三は義龍を「おいぼれもの」と呼び、低い評価だったといわれ、義龍の母違いの弟たちや、娘・帰蝶を嫁がせた織田信長を評価していたとされます。
  3. 義龍の出自問題:義龍は、深芳野と国を追われた前守護・土岐頼芸の子であるという説があったとされます。

このように語られる確執の原因の真偽の程は確かではありませんが、父と子の間には様々な葛藤が積み重なった事は、確かだと思われます。

斎藤道三の側室・深芳野の死因は?

斎藤道三の側室で、義龍の生母である深芳野(みよしの)の死因は不明です。
深芳野に関する記録はほとんどなく、生まれた年も亡くなった年も記録にありません。わかっているところでは、以下のようなことがあります。

  • 美濃守護・土岐頼芸のお気に入りの妾(めかけ)であり、1526年12月頃に道三へ譲り渡され側室となりました。
  • 道三の側室になった後、1527年6月に義龍を出産。側室になった6か月後に出産した為、義龍の父親が道三ではない可能性についても囁(ささや)かれています。

また、美濃一の美女と言われ、身長は約180cmを超える長身女性だったとも言われています。この長身は、息子・義龍にも受け継がれているそうです。

斎藤道三生涯年表(簡単解説)

1494年(生年不詳)山城国もしくは美濃国で生まれる(諸説あり)
1505年京都で僧侶となる
1512年~1521年還俗し、油売りの行商人として成功、その後武士となる
1524年美濃国・守護・土岐氏に仕える長井氏の家臣となる
1525年長井氏・家臣・西村氏の家名を継ぎ西村勘九郎正利と名乗る
1526年土岐氏・家督争いで土岐頼芸(ときよりあき)の守護就任に貢献
1530年長井家当主を殺害し長井家を乗っ取り、長井新九郎規秀と名乗る
1538年美濃国・守護代・斎藤利良病死後、名跡を継ぎ斎藤新九郎利政と名乗る
1542年土岐頼芸とその子を尾張国へ追放し、美濃国主となる
1547年加納口の戦いで尾張国・織田信秀を撃退するが、後に和睦
1548年娘の帰蝶を織田信秀の嫡男・信長に嫁がせる
1554年家督を嫡男・義龍に譲り、仏門に入り道三と号する
1556年長良川の戦いで嫡男・義龍に敗れ戦死

斎藤道三 家系図

斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)との仲は?

斎藤道三と正室・小見の方との娘・帰蝶(濃姫)の記録は、確かなものがあまり残されていません。
帰蝶は、織田信長の正室として有名な女性ですが、信長との結婚が初婚ではなかった説があります。

父・道三の命により、美濃の守護職である土岐家の子息と(一説では兄弟二名と順番に)結婚した可能性があり、いずれの子息も道三の手により命を落としたそうです。
このような経緯により帰蝶は実家に戻され、その後、織田信秀との和睦目的で織田家嫡男・信長に嫁ぐこととなったといわれています。

このように帰蝶(濃姫)も父・道三の政治の道具として、政略結婚をさせられたことは確かですが、その為に父と不仲だったかどうかは確かではありません。

斎藤道三と織田信長の関係性

斎藤道三は、娘・帰蝶を織田信長に輿入れさせた後、聖徳寺(しょうとくじ)の会見で、娘婿・信長に初めて対面する機会を得ます。
道三は、この会見で当時「おおうつけもの」と評されていた信長の才能を見抜き高く評価し、「自分の子どもたちは、信長の門外に馬を繋ぐ(家臣となる)ことだろう」と漏らしたともいわれています。

また、道三は、長良川の戦いの直前に信長に美濃を譲り渡す旨書き記した『美濃の国譲状』という遺言状を作成し、長良川の戦いの道三側の加勢に向かっていた信長に届けられたそうです。
この遺言状の真偽の程は確かではありませんが、道三の窮地となる長良川の戦いに駆けつけていたことは真実。
このことからしても、道三と娘婿・信長との間には信頼関係があったことは確かだと言えるでしょう。

【まとめ】斎藤道三は美濃のマムシと恐れられていたが、最後は息子に裏切られて人生を終えました

斎藤道三は、名もなき者から美濃の国主まで上り詰めた戦国下剋上の世を代表する武将です。
才能あふれる人物であった一方、残酷ともいえる行動やワンマンな政治手腕から、家臣からの信望はあついとはいえない部分もある人物だったようです。
そして最後は息子・義龍との長良川の戦いにより、敗れ・斬首され戦死するという、やはり戦国下剋上の世を象徴する壮絶な最後で人生を終えたのでした。