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【柴田勝家とお市の方】歳の差結婚・夫婦仲やエピソードも含めて解説

柴田勝家と言えば、織田信長の家臣として有名です。若い頃から織田家に仕える重鎮でもあります。
一方、お市の方は絶世の美女と言われていますが、波瀾万丈の悲劇の女性です。
ぶこつなイメージのある勝家と、戦国一の美女のお市となぜ結婚できたのか?
勝家とお市の方の最後や夫婦仲など、エピソードを交えながら、二人の歩んだ人生を解説します。

柴田勝家とお市の方の詳細

柴田勝家とお市の方、見た目は美女と野獣のようですが、
人物像から詳細をたどっていくと

  • 柴田勝家とはどのような人物だったのか【功績・逸話も含めて解説】
  • 織田信長の妹・お市は絶世の美女だったが悲劇の女性でもあった

この2つことを解説していきます。

柴田勝家とはどのような人物だったのか【功績・逸話も含めて解説】

柴田勝家は、織田信長による尾張統一に貢献したほか数々の戦いに勝利し、家臣随一の猛将と呼ばれていましたが、一方で温情ある人でした。
家臣の過ちに対してもそれを責めず数年の協力に感謝をする度量の深さを持っていたのです。
信長死後に対立した秀吉と戦った賤ケ岳の戦いにおいて、勝家の人となりを表すエピソードが残っています。
柴田側に付いていた前田利家は、秀吉の旧友であったことから、秀吉と戦うことをためらってい、戦場を勝手に撤退したのですが、勝家はそれを責めず「秀吉と仲が良いのだから必ず秀吉に降伏するように。私のことを気遣い再び道を誤ってはならない」と語ったと言われています。
また、宣教師のルイス・フロイスが書いた「日本史」の書物にも、温情ある人柄を伝えています。

織田信長の妹・お市は絶世の美女だったが悲劇の女性でもあった

お市は生涯二度も目の前で夫に自害され、最後は自身も自害に選んだ悲劇の女性です。

一番目の夫・浅井長政は織田信長との同盟を破り自害に追い込まれ、二番目の夫・柴田勝家は豊臣秀吉と対立しており、戦に大敗したことで自害を選んだ。
浅井長政とは織田家との同盟のために、お市は信長の命令で、浅井家に嫁ぎましたが、長政と懇意だった朝倉義景が信長を攻撃したこや、信長のやり方に疑問を感じていた事などから両家は断絶。結果、信長の怒りをかい長政は自害へと追い込まれました。

柴田勝家とは、お市の連れ子と穏やかな日々を過ごしていましたが、信長の死去によって状況が一変。後継者問題で秀吉と対立し家臣同士の戦、賤ケ岳の戦いで大敗し、北ノ庄城にてお市と共に自害した。
お市は二度も夫に自害された女性です。
助かる道もありましたが、またも夫に自害される苦しみを味わいたくなかったことや、最後まで夫に添い遂げる気持ちから自害を選んだと思われます。

柴田勝家はなぜお市と歳の差結婚できたのか

柴田勝家とお市が26歳差という歳の差結婚が出来たのは、豊臣秀吉という共通の憎むべき相手がいたからです。
勝家は織田家をないがしろにする秀吉が許せません。
お市も信長の命令を受けた秀吉によって夫・長政は自害に追い込まれ、幼い息子の万福丸は磔(はりつけ)にされた過去がありました。
そして、織田信長の後継者を決める「清須会議」で、勝家は信長の三男である織田信孝を推薦しますが、秀吉は信長の孫である、まだ三歳であった三法師を推薦。
対立が深まる中秀吉は、邪魔な勝家を手なずけるために、お市との結婚を勧めます。
勝家はお市に惚れ込んでいたためこれを受け入れ、代わりに信長の後継者を、三法師となるように同意させました。
秀吉を憎む共通があったことで、歳の差結婚をしましたが、考え方次第では秀吉の策略にはまったのかもしれません。

柴田勝家とお市の方との夫婦仲は?【エピソードも含めて解説】

実際は政略結婚した二人ですが、夫婦仲は良かったと言われています。
勝家は60歳になっても、正妻がいなかったことから、お市への思い入れは相当なもので、美しい主君の妹であるお市とその娘たちを丁重にもてなしたそうです。
そのことが伺えるエピソードがあります。
賤ケ岳の戦いの後に、捕らえた秀吉軍の武将が「秀吉様はお市様を力ずくで自分の女にしたという。勝家はお古を大事になさって哀れなことだ」と、吐き捨てた言葉に勝家は妻を馬鹿にされたことに怒り、武将とその妻の口を裂いて殺したと言われています。
秀吉がお市を手込めにしたというのはおそらくでまかせですが、それほどまでに勝家はお市を大事にしていたのでしょう。

柴田勝家とお市の方の最後は【自害を選んだ夫婦愛】

柴田勝家とお市は、居城である北ノ庄城にて自害しました。
秀吉と対立してた勝家は、1583年の賤ケ岳の戦いで敗北し、更に北ノ庄城が秀吉軍に包囲され、もう逃げ道はないものだと思ったのかもしれません。
勝家はお市に三人の娘とともに脱出するように指示しましたが、幼い娘たちだけを逃がし、自分は夫と自害する道を選択したのです。
一説には秀吉を嫌っていたとも言われていますが、25歳も年を離れてしたが夫婦仲は良く、短いながらも穏やかな生活を過ごしたことで、最後まで添い遂げると心に決めていたのかもしれません。
自害したのち、北ノ庄城は家臣の手によって仕掛けられた弾薬が爆発し、二人の亡骸は天高く昇ったそうです。

柴田勝家とお市の方の子供

柴田勝家は60歳にして初婚。一方お市は子連れの再婚。夫婦仲はとても良かったと伝えられていますが、では子供たちとはどうだったのか

  • お市の方の連れ子と柴田勝家との仲は?
  • 残された子供たちのその後は?

この2つについて詳しく紹介していきます。

お市の方の連れ子と柴田勝家との仲は?

勝家はお市だけでなく娘たちも丁重にもてなしました。
特に実父の記憶があまりなかった三女・お江は勝家になついていたといわれています。
残念ながら三姉妹がともに過ごしたのは8カ月ほどであり、それを示す逸話などはあまり残っていません。
ただ勝家とお市を祀る柴田神社(福井県福井市)の隣には三姉妹神社があり、夫婦・兄妹・家族の絆をご神徳とした「絆の宮」として広く崇拝されていることから、勝家と三姉妹の絆もまたお市と同様に深かったといえるでしょう。

残された子供たちのその後は?

お市が自害したのち、三姉妹は秀吉によって保護されそれぞれ別々の運命をたどりました。
長女・茶々(淀殿)は秀吉の側室となり豊臣秀頼を生み、秀吉亡き後は豊臣政権の中心に君臨し、新たな天下人である徳川家康と対立し、大坂夏の陣で徳川軍に敗れ、秀頼とともに自害しました。
次女・お初(常高院)は従兄であった京極高次と結婚。
関ヶ原の戦いで、武功を立て若狭国(現在の福井県)を与えられますが、9年後に亡くなりお初は出家します。
大坂の陣では姉・茶々と妹・お江の舅(しゅうと)である徳川家康の仲介に奔走し、その後京極家の屋敷で病死しました。
三女・お江(崇源院)は過去に二度武将のもとに嫁ぎますが、三度目にして、徳川家康の息子・徳川秀忠のもとに嫁ぎ落ち着きます。
後に徳川幕府二代目将軍の妻となり、息子は三代目将軍徳川家光となります。
また娘の和子は天皇家に嫁いだため、浅井三姉妹の血は現在も皇室の中に受け継がれています。

お市と浅井長政は政略結婚だが仲むつまじい夫婦だった

お市と浅井長政は、政略結婚とはいえその夫婦仲は良かったと言われています。
軍議中にも長政はお市をそばに置き、家臣たちにもあきれられていたそうです。
長政が信長と敵対するようになった際には、長政はお市に信長のもとに帰るように勧めましたが、お市は「それを受け入れるくらいなら自害する」と拒否したと言われています。
親族を敵に回してまでも、夫のもとにいたいと思うほど、お市と長政は深い愛で結ばれていたのでしょう。

お市と織田信長の仲はどうだったのか

お市には12人の兄がいましたが、性格や容姿などは信長によく似ていたと言われており、兄の中でも信長を一番慕っていたといわれています。
そんなお市と信長の仲を伺えるエピソードがありました。
夫の浅井長政が信長を裏切り、朝倉軍とともに信長を挟み撃ちにしようとした際には、陣中見舞いと称して小豆を袋に入れて両端を縛ったものをおくりました。
これを見た信長は自身が「袋のネズミ」であることを悟り、すぐに退却を行いなんとか浅井・朝倉連合軍から逃れることが出来たのです。
このように敵味方に分かれたとはいえ、ピンチの時には危機を知らせるなど決して兄妹仲は悪くなかったといえます。

豊臣秀吉もお市に惚れ込んでいた

女好きである秀吉もお市に惚れ込んでいました。勝家と秀吉の対立もお市をめぐってという見方もあるほどです。 
秀吉がお市と結婚できなかった理由は2つあります。
一つ目は、お市が秀吉を嫌っていたからです。
息子や夫を殺されたことに加えて、狡猾で計算高い秀吉の性格が、彼女のまっすぐな性格に合わなかったのかもしれません。
二つ目は秀吉にはすでに寧々(高台院)という正妻がいたからです。
お市が嫁入りするとしても側室という立場になり、主君の妹であり誇り高きお市に対してそのような真似はできないと、最後は秀吉も結婚をあきらめたと言われています。

まとめ:柴田勝家とお市は結婚したが秀吉に攻められ自害を選んだ

柴田勝家とお市は、数奇な運命をたどり、最後は豊臣秀吉によって、攻め込まれ二人は自害を選びました。
わずか8か月ほどの夫婦でしたが、三人の娘たちと細々ながらも、穏やかな生活をおくりました。
たとえ、幸せなときが短くても、二人は夫婦としての絆ができていたと思われます。そのため最後を共にしたのではないでしょうか。
また、勝家とお市が亡くなったあとは、勝家の本拠地であった福井県福井市の柴田神社に、二人仲良く並んで祀られています。