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豊臣秀吉の最後は?死因の3つの真相・言葉や戦いまで徹底解説

豊臣秀吉は、農民出身でありながら、戦国時代の修羅場を数々くぐりぬけ、天下人まで上り詰めた立身出世の人です。
そんな秀吉の最後は、いったいどんなものだったのでしょうか。
秀吉の死因として挙げられる3つの説の真相や、最後の言葉、戦いまで、詳しく見ていきながら、秀吉の最後について徹底解説します。

豊臣秀吉の最後の様子はどうだったのか?

豊臣秀吉の最期は、あっけなくこの世を去っていますが、決して安心した最期ではないようです。
豊臣家存続のため遺言を残すほど、心中は複雑だと言えるでしょう。
ここでは

  • 秀吉の最期の様子は?
  • 息子と豊臣家安泰を願う
  • 最後の言葉~辞世の句~

これら3つについて、秀吉の最期を紹介します。

秀吉の最期の様子は?

豊臣秀吉は、1598年醍醐の花見の後、5月頃から急激に体調を悪化させます。
腹痛、下痢、食欲不振等の症状に苦しみ、最後は精神混乱や失禁といった症状も見せたと伝えられています。
また、秀吉の最期は、長年側近として自分を支えてきた、弟・秀長の病死や千利休との確執と切腹、そして、養子・秀次との確執と切腹を経ており、いわゆる血縁による盤石な体制で安心して死を迎えるといった状況にはなく、厳しいものだったといえるでしょう。

息子と豊臣家安泰を願う

晩年、そして病に伏した豊臣秀吉の大きな心配事は、自分の死後の幼い息子である秀頼と豊臣家の行く末でした。
息子と豊臣家安泰を守る為に、秀吉は「五大老・五奉行を設置」制度化を図り、その様子を知れる資料として貴重な秀吉の遺言状といわれるものが三つ存在します。

1つ目の遺言状は、徳川家康前田利家、前田利長、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元ら五大老と彼らの嫡男、そして前田玄以、長束正家に宛てて出されており、受け取った者たちは秀吉に、言いつけに背かないという起請文に、血判をつけて渡すことを求められました。
2つ目の遺言状は、徳川家康に宛てに。
3つ目の遺言状は、再び五大老に宛てて、念を押すように託しています。

そしてこの3つの遺言状を残し、1598年8月18日に秀吉は死を迎えました。

最後の言葉~辞世の句~

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」、豊臣秀吉の最後の言葉、辞世の句です。
この句は「自分の人生は、まるで夢の中で夢を見ているかのような、なんとも儚いものだった」という意味です。
天下人・秀吉の辞世の句が、このような一言となったのは、自分の死後の世における豊臣家の安泰を案じていた事、つまり残された息子・秀頼と、豊臣家の生く末を案じる気持ちが、込められた辞世の句なのです。

豊臣秀吉の死因

豊臣秀吉の死因については、病気説・毒殺説など諸説ありますが、正確な死因は、はっきりとしていません。
そこで、疑わしい説として

  • 天ぷらの食べすぎ説
  • 梅毒・癌のなどの病気説
  • 毒殺説

これら3つに絞り解説します。

天ぷらの食べすぎ説

この天ぷらの食べ過ぎ説ですが、これは間違いです。
時代背景から、秀吉の時代から日本に伝わるようになり、好んで食べていたのかもしれませんが、
天ぷらの食べ過ぎで亡くなってはいません。
天ぷらが原因で亡くなったのは、徳川家康です。
多分、この噂話は秀吉と家康の死因が混同したのかもしれません。

梅毒・癌のなどの病気説

豊臣秀吉の晩年は衰弱が激しく、下痢や腹痛、食欲不振により数か月で死に至ったことから、大腸癌が疑われていました。
また、この時代流行していた梅毒という、感染症の症状にも通じるところがある為、脳梅毒による死という説もあります。
秀吉の朝鮮出兵がきっかけで、この感染病の拡大が起こっており、加藤清正など豊臣家に近い武将がこの病により、命を落としたといわれています。
そして、症状はもとより、秀吉が女性好きな性格だったため、この病気を死因と疑う説も、浮上したとも言えるでしょう。

毒殺説

秀吉の毒殺説は、中国明の使節である「沈 惟敬(しん いけい)」という人物に、毒殺されたという記述が、18世紀に編纂された「燃藜室記述」という、朝鮮の歴史書に残されています。
しかし、「沈 惟敬(しん いけい)」は、和議交渉の為に来日し、秀吉に謁見したのは事実はありません。それに、秀吉が死去する二年前に来日している為、この説の信憑性(しんぴょうせい)は低いです。

豊臣秀吉年表解説【人生を簡単に振り返る】

西暦(年齢)出来事
1537年(1歳)尾張国中村にて農民の子として誕生
1554年(17歳)「織田信長」に小者として仕える
1561年(24歳)おねと結婚
1566年(29歳)墨俣一夜城を建設
1573年(36歳)「羽柴秀吉」に改名
1574年(37歳)近江長浜城の城主となる
1582年(45歳)本能寺の変後、中国大返しを行い山﨑の戦いで明智光秀を討つ。
清洲会議
1583年(46歳)賤ヶ岳の戦い、大坂城築城
1585年(48歳)関白宣下を受ける
1586年(49歳)天皇より豊臣姓を賜る
1590年(53歳)小田原征伐、天下統一
1592年(55歳)第1次朝鮮出兵(文禄の役)
1593年(56歳)側室・茶々(淀殿)が秀吉の子・秀頼を出産
1596年(59歳)第2次朝鮮出兵(慶長の役)
1598年(61歳)伏見城にて死没

豊臣秀吉とはどのような人物だったのか?

豊臣秀吉の人物像は、天下統一前と後では明らかに変化しています。

《天下統一前》

  • 人の心をつかむことに長けており、心遣いも持ち合わせていたが、人たらしとも言われていた
  • 敵だったものを、味方として受け入れる、寛大な心もあった
  • 一夜城、中国大返し等の逸話から、決断力と行動力の高さがあり、何よりも農民から天下人にまで登りつめ、戦国の世を終わらせた功績も明らかです。

《天下統一後》

  • 家臣の言葉を無視し、朝鮮出兵を決定するなど、独裁的な政治を行うようになった
  • 猜疑心(さいぎしん)の強さから、千利休や甥の秀次やその一族、側近全てを処刑するという残忍な行動をした。

天下統一前と後では、性格や人物像がこんなにも変わるものだろうか。
もしかすると、秀吉の心に秘めた思いがあったのかもしれません。

豊臣秀吉の伝説

豊臣秀吉は、数々の伝説を残しており、特に有名な伝説が3つあります。

1つ目は、中国大返しでは、主君・織田信長の死去を知り、京都までの約230㎞を一気に駆け抜けて、明智光秀を打ち取ったとされる伝説。
これにより、秀吉の天下統一が始まりました。

2つ目は、信長の部下として美濃攻めを行う中、戦いの起点となる城を、わずか数日で完成させたという墨俣一夜城伝説。
秀吉はこれをきっかけに信長からの厚い信頼を得ることとなり、出世したといわれます。

3つ目は、主君・信長の草履を懐で温めたというものです。
これは秀吉が登場するドラマ等でよく描かれるシーンですが、最初に提唱されたのは、江戸中期以降に出版された物語本であることから、信憑性は低い逸話といえますが、人たらしで気が利く秀吉の性格をよく表しているものといえそうです。

豊臣秀吉の死後は?

豊臣秀吉が亡くなり、後に残された「寧々」「淀殿(茶々)」「豊臣秀頼」は、どのように過ごしていたのか?

  • 正室・高台院(寧々)のその後
  • 側室・淀殿と息子・秀頼のその後

3人のその後について解説します。

正室・高台院(寧々)のその後

豊臣秀吉の死後、正室・高台院(寧々)は、側室・淀殿とともに息子・秀頼の後見を務めましたが、1599年には大阪城を後にし、京都新城に居を移し、関ケ原の戦いの後は、京都新城に住まいながら秀吉の供養に専念して、1603年に落飾(らくしょく)朝廷から高台院という院号を賜ります。
大阪の陣においては、江戸幕府の意向により大阪には近づけない状況のまま、豊臣家の滅亡の日を迎えることとなりました。
しかし、高台院自身は江戸幕府、朝廷とも良好な関係をきずき続け、1624年には高台院屋敷にて静かに死を迎えたそうです。

側室・淀殿と息子・秀頼のその後

豊臣秀吉の死後、側室・淀殿と息子・秀頼は、天下分かれ目の関ケ原の戦いを迎えます。
この戦いの戦後処理の結果、秀頼は摂津・河内・和泉の60万余万石の一大名でした。
1603年に、徳川家康が征夷対処軍の官職を得て、江戸幕府の構築を始める中、内大臣となった秀頼は、生前の秀吉の計らいで婚約していた徳川秀忠の娘・千姫と結婚します。
しかし、京都方広寺の鐘銘問題をきっかけに、徳川家との合戦(大坂冬の陣)が始まり、一度は講和を迎えますが、家康は再び挙兵し「大坂夏の陣」となり、天守閣炎上の際、秀頼は淀殿と共に自害の最期を迎えることとなりました。
また、捕らえられた秀頼の子・国松8歳は六条河原で斬殺され、これにより豊臣家は滅亡を迎えたのです。

豊臣秀吉についてのQ&A

豊臣秀吉のちょっと気になる事を、Q&A形式でまとめました。
今回は

  • 豊臣秀吉が最後に作った城
  • 豊臣秀吉の最後の戦い

この2つについて解説していきます。

豊臣秀吉が最後に作った城

豊臣秀吉が人生最後に作った城が、京都新城(しんじょう)です。
秀吉が死去する前年の1597年に築いた城であり、当時の公家日記の記述によれば、京都御所の南東にあったとされ、太閤屋敷と呼ばれており、息子・秀頼が官位を授けられる際に滞在したほか、秀吉死去後には、正室の北政所(きたのまんどころ)(高台院)が利用し、高台院屋敷とも呼ばれていました。
その後、敷地は徐々に縮小し、北政所(高台院)が死去した後、完全に壊されました。
また、京都新城の資料は、ほとんど残されていない中、2020年5月に京都御苑の一角でこの城の遺構が初めて発見され、貴重な発見とされています。

豊臣秀吉の最後の戦い

豊臣秀吉の最後の戦いは、慶長の役です。
秀吉が朝鮮出兵を、二度に渡り行われており、文禄・慶長の役と呼ばれています。
文禄の役の講和交渉で、自分の要求が完全に無視されたことに怒った秀吉は、翌1597年再び朝鮮に出兵し、慶長の役を起こしました。
第二次侵略の目的は明の侵略ではなく、朝鮮南四道の実力奪取にあった為、朝鮮での残虐行為も、かなり非道だったそうです。
しかし、明・朝鮮側の抵抗も強く、朝鮮南部に侵入した日本軍はほぼ海岸線に釘(くぎ)づけとなり難航している中、1598年秀吉がこの世を去ります。
そして、秀吉に後を託された五大老の決定により、日本軍は朝鮮からの撤退する事となり、7年間にわたる秀吉の朝鮮侵略戦争は終わりを迎えたのでした。

<まとめ>豊臣秀吉の最後は意外とあっけなくこの世を去っていった

戦国時代一の出世を遂げた天下人・豊臣秀吉の最後は、残していく息子・秀頼と豊臣家の行く末を憂いながら、また朝鮮・明といった大陸への拡大戦略も道半ばのままというもので、心穏やかなものではなかったといえます。
そのような状況の中、急激に体調を悪化させ、最後は思いのほかあっけなく、この世を去らざるを得なかったのが、秀吉の最後なのでした。