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【豊臣秀吉の政策】身分・太閤検地など平和と安定ための構想改革を解説

豊臣秀吉は各地を次々と手中に収め、天下統一を成し遂げました。
様々な政策を行い、同時に発令も出しています。
今までにない斬新な政策で、武士・農民・商人が、自分の役割をさせることで、平和と安定を目指しました。
では、秀吉はどのような政策をして、改革を進めたのかを解説していきます。

豊臣秀吉の政策年表一覧

和暦西暦内容
天正10年1582-1598年太閤検地独裁政治
天正13年1585年惣無事令(九州地方)
天正15年1587年バテレン追放令
天正15年1587年/1588年惣無事令(関東・奥羽地方)
天正16年1588年刀狩令兵農分離
天正19年1591年身分統制令
文禄元年1592年朝鮮出兵(文禄の役)
文禄4年1595年五大老
慶長2年1597年再度の朝鮮出兵(慶弔の役)
慶長3年1598年五大老・五奉行の制度化

豊臣秀吉の政策:惣無事令(そうぶじれい)

惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣政権の私戦禁止令、平和統一政策の一つです。
関白となった豊臣秀吉は、天皇から全国の支配権を委ねられたと称し、惣無事(そうぶじ)(全国の平和)を呼びかけ、戦国大名間の私戦を禁じ、その領国の確定を自身に任せることを定めた政策です。
1585年、まずは九州地方の大名に、1587~1588年には関東および奥羽地方の大名に向け、惣無事令は発せられました。
また、この惣無事令は、大名だけではなく、百姓に至るまでの、全ての階層における全ての私戦および私闘を、禁じるものであり、まさに戦国の世を終息に向かわせた平和統一政策です。

豊臣秀吉の政策:太閤検地

豊臣秀吉は、1582年-1598年の自らの治世を通じて、全国的な土地に関する大規模な調査、太閤検地を実施しました。検地とは、田畑の面積や収穫量を調査することですが、この検地を徹底して推進したことで、以下の効果が生まれたとされます。

  • 土地の権利関係が整理され、「一地一作人原則」が確立し、もめ事の種も整理。
  • 単位が統一され、正確な収穫高を算出することができるようになり、土地の収穫高=石高で管理する「石高制」が確立。

秀吉が取ったこの政策は、平和な世の中を形成する基盤づくりに、他ならないものだったといえます。

豊臣秀吉の政策:兵農分離と刀狩令

豊臣秀吉は、農民には戦をせず、本来の自分の仕事に集中してほしいがために打ち出したのは

  • 兵農分離
  • 刀狩令

この2つの行った目的を解説します。

兵農分離

兵農分離は、武士と農民の身分をしっかりと区別して、軍事的、経済的に効率をよくする政策といわれています。
豊臣秀吉は、太閤検地、刀狩令、身分統制令などの政策をとり、この兵農分離政策も推進していきました。
そしてこの秀吉の兵農分離政策が生み出したものは、
・城下町の発展
・生産性の向上
・士農工商といったより細かい身分制度に発展
といわれています。

刀狩令

1588年豊臣秀吉は、農民から武器(刀、弓、槍、鉄砲)を没収する政策として、刀狩令を発します。
当時の農民は敵の襲撃に備えたり、兵として大名に駆り出されることもあった為、武器を所有していました。
秀吉の刀狩の目的は、農民による一揆を防ぐ為ともいわれていますが、農民を農業に専念させる為、ひいては、武士と農民の身分を固定する為ともいわれています。

豊臣秀吉の政策:身分統制令(身分制度)

1591年豊臣秀吉が発令した身分統制令は、「武士は、農民や町人(商人や職人)になってはいけない、また農民や町人も武士にはなってはいけない」という政策です。
翌年、関白の豊臣秀次の名で「人掃令」が発令され、武士、町人、農民それぞれの戸数と人数を、全国的に調査確定していくという、身分統制令の歯止め政策を実施したのでした。
秀吉の身分統制令の目的は、朝鮮出兵のための人員確保が目的だったといわれています。
そして、この身分統制令により武士、町人は都市へ居住、村は農民だけで構成されることとなり、兵農分離が確立します。
また、この身分統制令が、江戸時代の士農工商の身分制度の基盤となったそうです。

豊臣秀吉の独裁政治

豊臣秀吉の政治は、弟の秀長や茶人の頭脳明晰の千利休や、信頼する側近を抱えていたものの、最終決断は自らが下すという個人独裁政治を行っていたといえます。
甥で養子の豊臣秀次に関白職を譲った後も、太閤(関白を引退した人の呼び名)として実権を握り続け、中央政府としての組織の整備を十分には行いませんでした。
しかし、1595年の秀次事件による政治的混乱を機に、晩年の秀吉は、淀殿との間に生まれた息子・秀頼のサポートを目的に、五大老、五奉行という制度を作り、組織の整備を行い、自分の死後の治世における政治安定を目指したとされます。
しかし、その動きは遅きに失し、豊臣政権は終焉に向かうこととなったのでした。

豊臣秀吉の外交政策

豊臣秀吉の外交政策は、鎖国を感じさせるものや自信過剰のための失敗が、ありました。
その代表的なものは

  • バテレン追放令
  • 朝鮮出兵

この2つについて解説します。

バテレン追放令

天正15(1587)年、豊臣秀吉は、キリシタン宣教師の国外追放を趣旨としたバテレン追放令をを発します。
バテレンとは、ポルトガル語「神父」を意味するもので、当時はカトリック宣教師を指す言葉です。

秀吉がバテレン追放令を発するきっかけとなったのは、九州平定だといわれており、秀吉はこの平定中、長崎がイエズス会領となっている事実、九州のキリシタン大名と宣教師達が日本人の奴隷貿易に関わっている事実を知ることとなり、これに大変な危機感を覚えたことが、バテレン追放令に向かわせた大きな動機と言えます。
ただし、バテレン追放令では、個人がキリスト教を信じることや貿易については禁止しているわけではなく、必ずしも禁教令ではなかったとされてます。

秀吉がバテレン追放令を発した最大の目的は、ポルトガルやスペインにより推進されていた宗教を足掛かりにした侵略行為から日本を守ることにあったとも言えるでしょう。

朝鮮出兵

朝鮮出兵とは、1592年の「文禄の役」、1597年の「慶長の役」の2つの戦いの総称です。
天下統一を達成した豊臣秀吉は、明の征服を目指し、朝鮮出兵という強硬な対外政策を行いました。
戦場となった朝鮮半島へ、秀吉は大名たちを派遣、李氏朝鮮と明を相手に戦いましたが、戦いは泥沼化、一進一退や膠着状態を続けながら七年の月日が流れ、秀吉が亡くなることで明確な勝敗がつかないまま、ようやく終わりを迎えました。

秀吉が朝鮮出兵政策を行った理由は諸説あり、現在でも確かな説はありませんが、この政策により豊臣家臣の対立を招き、後の関ケ原の遠因を作ることにもなったとされ、豊臣政権の崩壊を早めた政策といわれています。

豊臣秀吉は息子・豊臣秀頼のために五大老・五奉行を設ける

豊臣秀吉は、自分の死後、豊臣政権の存続と、息子秀頼のサポートを行う体制を整える為に設置したのは

  • 五大老とは
  • 五奉行とは

この2つを設けた理由を紹介します。

五つを大老とは

豊臣秀吉は、豊臣政権外の有力大名から、徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元の5名を大老に就任させます。
役割としては、政権を運営する顧問、相談役でした。
秀吉は、自分の死後天下統一を狙いそうな有力な大名を仲間として取り込み、自分の死後に豊臣政権を狙わないようにしたといわれています。

五奉行とは

豊臣秀吉は、豊臣政権内の家臣の中から、信頼できる優秀な人材として、前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家の5名を選び、五奉行を設置しました。
役割としては、政権内の実務を担うものでした。
これもまた、自分の死後のことを考えて、盤石にするのが目的だったと思われます。

<まとめ>
豊臣秀吉は天下統一を実現し平和と安定の政策を目指すため奮闘した

豊臣秀吉は、自らの政権下で、戦国の世を終焉させ、平和で安定した社会を実現する為に様々な政策を精力的に推進しました。
そして、秀吉の政策の数々は成功を納め、新しい社会の基盤となり、その後の江戸時代に引き継がれたことを考えると、日本史における彼の功績は偉大なものに間違いないといえると思います。
ただ、秀吉は政治体制自体を盤石なものにする政策は、手薄で独裁政治だった点や、この時代の世界情勢から対外政策を実施したものの、朝鮮出兵などの失敗があったことは少し残念なこととも言えるでしょう。