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豊臣秀吉の有名な名言・格言30選【保存版】言葉に込めた思いとは?

豊臣秀吉は、百姓から天下人になったことは、誰しもが知っていることでしょう。ただその道は決して楽ではありませんでした。
秀吉の名言・格言を見ていくと、運が良かっただけではなく、彼自身の意識や逆境をマイナスではなく、前向きな姿勢でいいることや、人に対して思いやりや謙虚な姿勢なども伺えます。
なぜ、この名言・格言が出てきたのか?理由は何なのか?を思いながら見ていくと、秀吉に対しての新しい発見があるかもしれません。
時代を越えて、今でも伝え残されている秀吉の名言・格言を紹介したいと思います。

目次

豊臣秀吉の生い立ち

豊臣秀吉の生まれから天下統一までを簡単に紹介します。

豊臣秀吉/羽柴秀吉・戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。初代武家関白・太閤。三英傑の一人です。
秀吉は1537年に、尾張国愛知郡中村郷にて、木下弥右衛門となかの子として生ます。
何をしても長続きしませんでしたが、織田信長に仕えるようになってからは、斬新な奇策や政策で次第に頭角を現します。
信長が明智光秀に討たれると、すぐさま京に戻り光秀を討ち取り、その後、織田家後継者争いがおき、清須会議にて三法師を従えて、織田家内部の勢力を持つこととなります。
そして大阪城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、見事、天下統一を果たします。

豊臣秀吉の名言・格言30選

豊臣秀吉は、多くの名言や格言を残しています。有名な名言・格言から、こんな言葉も残していたものを、名言・格言の意味と、それにまつわるエピソードなども含めて解説します。

<名言1>
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス

意味エピソード

『きれいな鳴声をあげないホトトギスがいるなら、それをなんとか鳴かせて見よう』

戦国三英傑と呼ばれる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が、鳴かないホトトギスを目の前にしたときに、どのような反応をするのかを表した歌です。
鳴かないなら鳴かせてやろうという、秀吉の「なんでもやってみよう」という挑戦心がよく表現されていますね。

<名言2>
敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ。

意味エピソード

『逃げ道を塞ぐと敵は降参せず、猛烈に反撃してきます。そのため攻める前に、一つだけ逃げ道を作っておく』

相手徹底的に叩きつぶしてしまうと、恨まれていつか復讐される恐れがあります。それを避けるために、わざと逃げ道を作ってあげる。
このことをすることで、無駄な戦や血を、流すことをないようにすることと、自分のためになるからです。さすが要領の良い秀吉です。

<名言3>
負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。

意味エピソード

『負けると思ってしまったら必ず負ける、勝つと思って戦い続ければ勝てる。負けそうでも人には勝つと言い聞かせる』

どのような状況でも、上の立場の人が部下の前で弱音を吐いてはいけない。弱音を吐く人には誰も付いてこない。
そしてこの言葉は、自分にも言い聞かせている意味があり、相手が格上の人でも諦めないで絶対に勝つと、強い気持ちを持つことが必要であるという意味も込めています。

<名言4>
人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。

意味エピソード

『人からの意見ででた考えは本当の考えではない。誰も思いつかない考えこそが本当の知恵である』

他の人が考えた意見を参考にしても、それは自分の考えではない。だから自分で考えてこそ、自分の意見になる。
物凄く重みのある言葉です。秀吉は自分で考え知恵を出したからこそ、天下人になれたのかもしれません。

<名言5>
障子を開けてみよ。外は広いぞ。

意味エピソード

『障子を開けて見る世界は広い』

視野を広げるということです。狭い世界にいては何も得られない、だから閉じ込まないで、もっと広い視野でモノを見ると、思いがけない発見がある。
別の表現では、自分の殻に閉じ込もってないで、思い切って殻を破る。そんな意味が込められて言葉です。

<名言6>
いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。

意味エピソード

『どんな時も前に出る。そして戦の時にでも先頭に立つ』

どんなチャンスも逃さない。常に自分をアピールして、出世街道を上り天下統一を成し遂げました。まさに秀吉らしさが出ている言葉です。

<名言7>
財産を貯め込むのは、良い人材を牢に押し込むようなものだ。

意味エピソード

『お金を使わないで貯めるのは、良い人材を使わないで閉じ込めているに等しい』

お金は使ってこそ価値が出る、だから自由にお金を使うと言うことです。

<名言8>
世が安らかになるのであれば、わしはいくらでも金を使う。

意味エピソード

『世の中が平和になるなら、私はいくらでもお金を使う』

平和はお金では買えませんが、戦国の世を戦い続けてきたからこそ、平和な世の中を望んでいたのかもせれません。

<格言9>
夢は大きいほど良いと言うが、わしはすぐ手の届くことを言っている。

意味エピソード

『大きな先にある夢も夢であるが、ちょっと頑張れば叶う事も夢である。それを叶える事を大事にしている。』

秀吉は、一つ一つ出来る課題をクリアしてその先にある目指した夢(天下統一)にたどり着いたと言うことです。

<名言10>
いくら謙信や信玄が名将でも、俺には敵わない。彼らは早く死んでよかったのだ。生きていれば、必ず俺の部下になっていただろう。

意味エピソード

『いくら上杉謙信や武田信玄が名将でも、私の敵ではない。彼らは早く亡くなったから、自分の臣下にならずにすんだ。生きていれば間違いなく、私の臣下になっていた。』

この名言は、戦は自分が強いと言ったのではなく、どんなに戦に強い相手でも、従わせる方法があると語っています。
謙信や信玄は強い武将ですが、自国は決して豊かではありませんでした。そのため金と権力を持っていた秀吉は、戦をするまでもなく、部下となり従うことになっていた。
つまり、戦をすることが全てではないということです。

<名言11>
戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。

意味エピソード

『良い武将のやることは、戦わなくても勝利を得ること』

秀吉は、できるだけ戦わないで勝つかにこだわっていました。力づくで敵を攻め落としても、味方の被害も大きいからですね。
秀吉は貧しい農民の出身だったため、生まれながらの家臣がいません。そのため、自分の部下は一人も失いたくないという思いがあったのかもしれませんね。

<名言12>
人と物争うべからず、人に心を許すべからず。

意味エピソード

『他人とむやみに争うべきではない。またやたらに心を許すべきでもない。』

下剋上・裏切りという考え方が色濃く出ている言葉ですね。
秀吉は、九州の島津氏や東北の伊達政宗が降伏した際は、統治を認めるなど大名と無用の争いが起きないように、気をつけていました。
ただ晩年の秀吉は、李氏朝鮮に無用な戦争を仕掛けたり、徳川家康に気を許したことで、自分の死後に、豊臣家を滅ぼされたりと、この名言の意味が薄れてしまったことですね。

<名言13>
主従や友達の間が不和になるのは、わがままが原因だ。

意味エピソード

『主君と家臣、友達同士の関係が悪くなるのは、お互いのわがままが原因である』

リーダーとスタッフ、上司と部下、友達同士。大抵人間関係が悪くなるときは、どちらかが自分の思い通りにしたいという気持ちがあるときだ、ということを述べています。
お互いが気を使っていれば、不仲になることはないということですね。

<名言14>
猿・日吉丸・藤吉郎・秀吉・大閤、これも又皆がいやがるところでの我慢があったればこそ。

意味エピソード

『猿・日吉丸・藤吉郎・秀吉・太閤でも、皆が嫌がることも自分は我慢したからこそ出世した』

秀吉が天下統一をしたあとに、自分の人生を振り返って見ると、農民上がりのため扱いが良くされなかったことや、結果を出しても因縁を付けられるなど、我慢強く耐えながらも、やり続けたから出世することができたと、思いながら出てきた名言です。

<名言15>
やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる

意味エピソード

『やるべきことが明確にあるからこそ、一日中寝ることも、食べることも、忘れるほど没頭することができる』

秀吉の行動力とスピードをよく表した言葉の一つです。
秀吉のスピードを示すエピソードはいくつもありますが、その中で有名なのは中国大返しでしょう。
岡山から京都までの230kmをわずか10日間で駆け抜けました。まさに言葉通りの行動を成し遂げたと言えるでしょう。

<名言16>
主人は無理をいうなるものと知れ。

意味エピソード

『主人は無理難題を言ってくるものだと認識しておくべきだ』

この名言は、秀吉が信長に仕えていたときに、「敵の目の前で城を一週間で作れ」であったり「敵から撤退するときに最後まで食い止めろ」など無理難題を命じます。
当然秀吉は、命令通り持ち前の知恵で全て遂行しています。その頃を思い、出てきた言葉かも知れません。

<名言17>
信長公は器量が狭いためである。人には敬遠され、衆から愛されることは
ない。

意味エピソード

『(織田信長が降伏した者も殺したのは)器量が狭いからである。だからこそ人々は、信長を恐れはするが尊敬はせず、また愛されることもないのだ』

これは秀吉が主君であった信長について語った名言です。
織田信長は、一度敵対した相手は容赦はせず、たとえ降伏したとしても許すことなく殺していました。
そのため敵味方関係なく恐れられ、反感もあり最後は明智光秀に裏切られてしまいます。それを知っていた秀吉だから出てきた言葉ですね。

<名言18>
戦は六、七分の勝ちを十分とする。

意味エピソード

『勝敗は、六・七分勝てば良い』

戦の時は、6・7割の勝利であると、そこから活かせる反省もありますが、完全完璧な勝利であれば、反省どころか浮かれも出てきて、次の失敗に繋がるかもしれません。

<名言19>
「筑前守(秀吉)もおのおの(敵の城主清水宗治)ご存分の結構(切腹して開城する決断)深く感じ申す、いささかも相違の儀、あるまじく候。さすが城主、神妙に侍るよし」

意味エピソード

『秀吉もおのおの方のご存分に深く感じ入ったので、いささかも相違はありません。さすが備中高松城主に任ぜられただけの事はあります。城兵をご哀燐なされるのは、返す返すも立派で優れた考え方であります。』

豊臣秀吉が備中高松城の水攻めで、城主・清水宗治の切腹と引き換えに開城することになり、民衆も救うこともできたのです。
その際、秀吉が清水宗治に伝えた言葉と言われています。
敵であっても、その行為が筋が通っているものなら、認め、敬意を表する、というのが秀吉。
このように、敵にも敬意を表せる人間力が、天下をとれた大きな理由のひとつなのでしょう

<名言20>
およそ主人たるもの、1年使ひ見て、役に立たぬときは暇を遣は
し、家来としては、三年勤めて悪ししと知らば、暇をとること、法なり。

意味エピソード

『主君は家臣を1年雇ってみて、使えないと思ったらやめさせ、家臣は3年主君に勤めて、この人にはついていけないと思ったら、辞めれば良い。』

主君は人を見なれ、使いなれているから、1年たっても育たない人材は、主君にとって良い人材とはならないということがわかるでしょう。
それに引き換え家臣は、主君が自分に合うか合わないか、見切りをつけるには3年ぐらいはかかるでしょう。
これは現代で言えば、主君=リーダー・家臣=従業員と考えると、解雇されるか、転職するかとということです。

<名言21>
どこへ逃げたって、日本全国は俺の庭だ。気にするな。

意味エピソード

『どこに逃げようと日本そのものが俺にとっては庭のようなものだ。いちいち気にするな』

この言葉には、実は秀吉の優しさと度量の大きさがあふれています。
ある日秀吉が可愛がっていた鶴が、飼育係の不注意から飛んで逃げてしまいました。飼育係は打ち首になることを覚悟で、秀吉に事実を報告したところ、秀吉から帰ってきたのがこの言葉だといわれています。
こんな優しい上司であれば誰でもついていきたいと思いますね。

<名言22>
何事もつくづくと思い出すべきではない。

意味エピソード

『辛い思い出をいちいち思い出してはキリがない』

この名言は秀吉が自分自身に言い聞かせたもので、もともと百姓の出である秀吉は、若い頃から身分の低さに苦労していました。
そして出世してからも、周りからはうとまれて嫌な思いでも数多くあるでしょう。でもそれを気にしていたら、いつまでも前には進めません。
だから過去の思いでは試練と前向きに捉えて、昔のことは思い出さなくても良いと考えていたようです。

<格言23>
かように年を取って財宝集まり来るをほどこさざれば、慳貪(けんどん)くずれるとやらんに遭う由なり。

意味エピソード

『このように年を重ねていくたびに財産が集まるのを、施(ほどこ)さないとケチで欲深くなれば倒産の辛いことにあうかもしれない』

お金を使うことによって経済が活性化され、世の中が良くなると同時に、自分も上手く社会に残れる。
この言葉通り、大阪が商人の町として更なる発展ができたのは、秀吉のおかげなのかもしれません。

<名言24>
汝の身の上においていささか心元なき事恃、この上は人質を取り急ぎ退き候へ。

意味エピソード

『身の上(大沢次郎左衛門)に、いささか不安な出来事(織田信長に殺される)が起こるので、私を人質にして退去するがよい』

秀吉が味方につけた大沢次郎左衛門を、織田信長の命令で、殺さなければいけない時がありました。
味方を殺したくない秀吉は、自分が人質なることで、それを口実に、大沢が逃げれるように考えた策です。
たとえ信長に背を向けることになっても、大沢を逃がし助けました。このことが噂になり、秀吉の評価が上がりました。
いかにして、人を味方に付けるのかを、言葉として込めた思いです。

<名言25>
信長公は勇将なり、良将にあらず。

意味エピソード

『信長様は勇敢な武将であったが、良い武将ではなかった』

織田信長は、確かに勇敢で武力を以て物事を解決する術には長けていたが、武力以外の手段で物事を解決する術を知らなかったからだとしています。
秀吉は信長のそういった過激な手段を、冷ややかな目で見ていたことがわかりますね。

<名言26>
人はたださし出づるこそよかりけれ、軍(いくさ)の時も
先駆けをして。

意味エピソード

『人はいつだって前に前に出た方がいい。そうして戦の時だって先駆けるのだ。』

この言葉も秀吉の行動力をよく表しています。
これは、なんでも進んで名乗り出て成果を上げ、どんどん出世していく秀吉を、妬んだ同期の一人が「人は皆、さし出でぬこそよかりけれ 軍の時は先駆けをして(戦の時は例外的に先駆けたほうが良いが、普段は人はむやみにしゃしゃり出ないことが良い。)」と言ったときに返した言葉であると言われています。

<名言27>
降参した者は、それ以上責めてはいけない。

意味エピソード

『降伏した者を、必要以上に責めたり処罰してはいけない』

負けてしまい降参したものを、必要以上に責めてしまえば、心理的に追い込まれて余計な戦をする事になるかもしれなせん。
それを避けるために、降参してきたものを責めてはいけないと言う、秀吉の無駄な死人を出さないことと、寛大さが伺える言葉です。

<名言28>
一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる

意味エピソード

『一歩一歩積み重ねていく努力をすれば、自分が予想していなかった結果を得ることができる』

出世するためにと急ぎ過ぎてはいけない。一つずつ確実に仕事を積み重ねていくことが重要だと、秀吉が残した言葉です。
普段の小さな努力が、いつかは大きな結果になって、自分に帰ってくると言うことです。

<名言29>
この黄金の輝きも、茶の一服に勝さるものかな

意味エピソード

『天下統一をし、富や名声・権力などを手に入れても、お茶を飲むという一服の幸せには、適わない』

日々の生活の中で、ちょっとした小さな幸せが、心を満たしてくれることを、誰しも一度は経験したことがあると思います。
その幸せを忘れずに、また大切にすることで、人は自然と心を豊かにしてくれます。
秀吉もその小さな幸せを、大切にしていたのかもしれません

<名言30>
側に置いておそろしい奴は、遠くに飛ばす。

意味エピソード

『実力があり将来自分の脅威になる者は、遠くに飛ばす』

実力でのし上がってきた秀吉だからこそ同じように、実力を持った者に対する警戒心も強かったのでしょう。
この言葉の通り、秀吉は天下統一直前に家臣となった徳川家康を、東海地方から関東地方に飛ばして、自分の本拠地であった大阪から離しました。
結果的にそれが家康の力を更に蓄えることになってしまったのがなんとも皮肉ですね

豊臣秀吉の辞世の句

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

『葉から地面に落ちて消える朝露のようにはかない我が身であること、自分にゆかり深い難波(大阪市)での出来事は、まるで夢のようであった』

一代で農民から日本の天下を統一した秀吉の最期は、はかないものと自ら捉えています。
生涯の中で、特に自らが建てた難攻不落の名城・大阪城が、そびえる難波での出来事が思い浮かぶのでしょう。
大阪の繁栄のいしずえを築いた秀吉ならではの発想と言えるのではないでしょうか。

まとめ:豊臣秀吉の名言・格言は、思いのこもった人の心      を動かす力がある言葉です。

豊臣秀吉の名言・格言は、自分の生い立ちや出世するために、周りからどう見られていたのかを考えていることが、感じ取られる言葉が多いです。
自分の身分を下に見せることで嫉妬心を沈めたり、どう振る舞えば、織田信長が気に入ってくれるのかなどを考え、客観的に見つめ、どう行動をすれば良い方向に進むのか、計算していたようにも思えます。
それはまさに、先見の目を持った秀吉だったからこそ、この名言・格言が出てきたのかもしれません。