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上杉謙信の性格!人柄やどんな人なのか逸話やエピソードを交えて解説

上杉謙信は「義」を大切にする「理にかなったことしかしない」などから、信頼も厚かった人物として伝え残されています。
自分自身を毘沙門天の生まれ変わりと言うほど、信仰心が強い人く、何事にも私利私欲のために行動をする人ではなかったようです。
ではそんな謙信は、どのような性格・人柄なのか。周囲からはどう見えていたのかを、逸話やエピソードを交えて解説します。

上杉謙信の性格とは?

上杉謙信の性格として伝えられているのは、

  • 何事にも義を重んじる性格だった
  • 酒豪であるが文化人でもあった
  • 敵味方関係なく信頼される性格であった
  • 信仰心が強い性格

この4つは、謙信が幼少の頃に預けられたお寺での修業が深く関わり、性格に表れています。
では一つずつ解説していきます。

何事にも義を重んじる性格だった

上杉謙信が義を重んじる性格になったのは、幼少期のお寺での修業が関係しています。
謙信は1530年に、越後の国上杉氏の守護代長尾為影の四男として生まれます。謙信が7歳の頃に春日山城の山麓にある林泉寺に預けられて仏門の修行の日々を送ります。
その修行で、仏教の心得を学んでことで、「私利私欲のためで行動をしない人としての正しい道」「心・精神を何事が起きても乱さない」など、自然と身に付き「大儀」「忠義」「仁義」「恩義」などの、道理を優先することができる性格になったと思われます。

酒豪であるが文化人でもあった

上杉謙信はかなりの酒豪と言われています。
米沢市の上杉神社に所蔵品である、馬上杯や春日杯はかなりの大きさで、これを愛用したいたということは、酒量が多いことがわかります。
大酒を飲み、梅干しをつまみにして、ひたすら飲み続けました。また二日酔いになったとぼやく書状も数多く残されています。しかもどれだけ飲んでも乱れることはなかったようです。

そんな謙信ですが、文化人としての才能も数多く後世に残されています。
戦国時代を代表する漢詩人と言われたり、青蓮院流の近衛稙家に学んだとされる、書にも長けています。
また、文化人として名高い細川幽斎、千利休とのやりとりもあり、文化的な教養にも精通していたことが分かります。

敵味方関係なく信頼される性格であった

上杉謙信は敵や味方に関係なく信頼されていたと伝えられています。戦国時代は、裏切りや卑劣な手を使い、敵であろうと味方でも窮地へと陥れることは当たり前でした。ですが謙信は策略を使わない武将であり、「義」を大切にすることから、信頼される人だったのかもしれません。

その性格から伺える具体的な逸話があります。

  • 武田信玄が亡くなる前に、後継ぎの武田勝頼に「何かあれば上杉謙信を頼れ」と遺言を残しています。生涯のライバルを頼れと言うほど、武田信玄にとって、もっとも信頼できる存在であったのでしょう。
  • 足利義昭が織田信長に攻められたときに、あまりにも敵が多すぎて対処できず、謙信に同盟を申し出ています。もちろん謙信は同盟を結びましたが、信長とも同盟を結んでいたため、立場上窮地に追い込まれ信長との同盟は破棄されました。

これらのことから、上杉謙信にとって助けを求められたら、立場など考えずに全力で救い出すからこそ、信頼される人として見られていたと思われます。

信仰心が強い性格

上杉謙信が信仰心を強く思うようになったのは、幼少期のお寺での修業や信仰深かったとされる母・虎御前の影響もあったと言われています。
戦国時代は、武士も民も生きるための心の拠り所として、信仰には深く関わっています。
しかし謙信は、自分は毘沙門天の生まれ変わりだと言うほど、強く信仰心を持っています。
毘沙門堂を作り、戦の前は毘沙門堂で祈りを捧げたり、同盟を結ぶときには、毘沙門堂で行うなど、信仰が生活の一部となっていました。

上杉謙信・戦の年表

上杉謙信の初陣から晩年まで、どのような戦をしてきたのか、年表で簡単に解説します。

1544年近隣の武将たちは謙信が若造とあなどり攻撃。本庄氏・長尾氏・山吉氏の協力により撃退。初陣にして初勝利しました。
1545年上杉家老臣・黒田秀忠が謙信の兄景康の殺害という謀反起こす。一度は降伏したものの、再び謀反を起こしたため、討伐をし黒田氏を滅ぼす。
1553年領土を奪われた信濃諸将の要請を受け、武田信玄軍と対決(第一回川中島の合戦)
1555年第二回川中島の合戦。決着つかず。駿河の今川義元が間に入り一度和睦をする。
1556年謙信は出家を志、高野山へ向かうが、筧冠城の大熊朝秀が謀反を起こしたため春日山城に戻り、大熊朝秀を攻撃して、越後の統一が完成する。
1557年信濃侵略を進めていた武田信玄にたまりかね討伐に向かう(第三回川中島の合戦)
1560年板倉城の椎名康胤(しいなやすたね)らを助け、富山城主神保長職(じんぼながもと)を討伐。
1561年破竹の勢いで関東に進軍。北条氏の諸城を攻略。北条氏康の小田原城を攻めるが攻略に至らず。
同年、第四回川中島の合戦で武田軍と激闘する。
1564年小田城を攻略。第五回川中島の合戦。
1568年越中の椎名康胤が越後を脅かしたため、松倉城・守山城を攻撃。
出陣中本庄城の本庄繁長が謀反を起こす。越後の戻り鎮圧する。
1569年椎名康種討伐のため越中に出陣し制圧する。
1571年北条氏政が同盟を破棄したことにより、北条氏・武田氏の両軍と対陣することになる。
1572年越中の一向宗徒と戦う。富山城攻略。
1573年神保長職を討伐。越中平定。
1574年北条氏政に対抗して関東に出陣。金山城・騎西城・羽生城などを攻略。
1576年越中を平定後、能登に進む。七尾城を攻めるが攻略できず。
1577年再び能登へ侵攻。七尾城主畠山氏の家臣遊佐続蜜が、謙信と通していて反乱を起こし、能登も上杉家の支配下になる。

上杉謙信はどんな人だったのか?

上杉謙信は「義を重んじる・最強の武将」と言われていました。ではなぜ周りからそのように言われるようになったのか?

  • 最強の武将だった
  • 謙信には正室がいなかった
  • 他国への侵略を一切行わなかった

この3つが後世まで伝え残されているのはなぜかを解説します。

最強の武将だった

上杉謙信はあまりの強さから「軍神」と称されたり、義に厚い性格から「義の武将」などと称されています。
後世に残されている史料から、謙信の強さは桁外れで、武田信玄や北条氏康、そして織田信長など、名高い戦国大名がしのぎを削る中、大小合わせて約70戦ほどの戦をしていますが、敗戦した戦で明らかになっているのは、わずか2敗だけと言われています。
ちなみに、敗戦した戦は、北条氏との戦でした。
織田家家臣、猛将・柴田勝家も謙信を落とすことができなかった。まさに最強の武将と言えるでしょう。

謙信には正室がいなかった

上杉謙信が正室を取らなかったことは有名な話です。縁談話がなかった訳ではありません。
近衛前嗣(このえさくつぐ)の妹・絶姫や上野国平井城主・千葉采女の娘・伊勢姫などありましたが、婚姻には至りませんでした。
ではなぜ正室を取らなかったのかは

  • 毘沙門天の教えで、妻をめとる事が禁止されていたためその教えを守った。
  • 母と姉が高潔な人だったため、自分が求める女性がいなかった。
  • 男性に興味があった。
  • 上杉謙信は女性だった。

など諸説ありますが、はっきりした理由は今でも分かっていません。

他国への侵略を一切行わなかった

上杉謙信はこの戦国時代でありながら、他国への侵略を生涯行いませんでした。
なぜなら、謙信は「幕府の元での秩序」の回復を目指していたのと、義を重んじる性格からムダな血は流したくないと考えていたからです。

ただ謙信は生涯の中で、関東・小田原城北条氏討伐を行っています。
これは領土拡大が目的ではなく、関東官領を任されていた上杉憲政が、奪い取られた領土を取り返すために出兵しています。そこに反北条勢力の力を借りて、北条氏を打ち破ります。

死と隣り合わせの戦に、助けを求められたら、迷うことなく協力をする謙信は、ここでも「義」を大切にしています。

上杉謙信の人柄から伺える逸話・エピソード

上杉謙信の逸話やエピソードは、ヒーロー的なものやダークなイメージのものまで数多くある中、特に注目するのは

  • 敵に塩を送る
  • 武田信玄亡き後も義を通した
  • 家臣に裏切られる?
  • 人身売買をしていた?

この4つは謙信らしい人柄が伺える逸話・エピソードです。では一つずつ解説していきます。

敵に塩を送る

上杉謙信の「義を重んじる」性格でまず思い浮かぶのは「敵に塩を送る」ではないでしょうか。
この出来事のきっかけとなった武田信玄は、敵対していた今川・北条が手を組み、武田に塩の取引を停止しました。当然信玄は困ることは目に見えてます。
そこへ謙信は、塩止めをする行いは卑劣であると批判し、上杉家の越後から塩を送ります。
敵とは言え人が苦しんでいるのは謙信の本意ではないのが理由として考えられますが、他にも苦境に立たされている信玄を救って恩を売るという理由もあると言われています。

武田信玄亡き後も義を通した

上杉謙信は武田信玄亡き後も義を通しました。
家督を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで敗北したときに、上杉家の家臣が武田の領土を攻め込もうと言いました。
しかし謙信は「確かに今攻めれば武田を滅ぼすことができる。でもその行いは義に反する」と言ったそうです。
謙信はその言葉通り、最後まで義を通し、信玄亡き後一度も武田と戦はしていません。

家臣に裏切られる?

上杉謙信は何度か家臣に裏切られています。人から信頼されているのに、なぜ裏切られるのかは、謙信には野心が無く領土を拡大することも考えていません。
戦国時代は、戦に勝って広げた領土を家臣に褒美としてあげていました。しかし謙信は、他国から救援があると出兵し、私利私欲のために戦をしている訳ではなかったので、勝っても褒美はありませんでした。
そのため家臣の中には不満を抱えて、他国に大名に仕官する人もいたそうです。また現代の言葉で表したら、引き抜きをされる家臣もいました。
これは謙信の真面目で律儀な性格から招いたとも言えるかもしれません。

人身売買をしていた?

「義の武将」上杉謙信が、人身売買をしていたという記述がある資料が残されていました。
内容は「上杉軍が小田城を攻略したときに、捕虜にされた人たちが謙信の指示によって売買されていた」「武田信玄の甲陽軍鑑にも越後へ侵攻して女・子供をさらって召使にした」と書かれていました。
この二つの資料を見る限り、戦国の動乱の時代では人さらいは頻繁に行われていて、人身売買も当たり前の行為で、特別なことではなかったと思われます。
そのため謙信でもこのような行為を行っても、不思議なことではないということです。

上杉謙信の名言

上杉謙信の名言は数多く残されていますが、「義」を意味としたものや「命」に関わる名言が多いです。その中で謙信の人柄が伺える名言があります。

【大事なのは義理の二字である 死ぬべきに当たってその死に顧みず 生きる道においてその命を全うし 主人に先立つこれこそ武士の本意である】

この言葉は自分自身に向けたもので、意味としては
やるべきことはきちんとする。自分に嘘をつかない。正しいことをやり続ける。
武士たる者、生きている間は義を持って相手と接していくのが当たり前だ。
まさに、自分の心に刻んでおく「義」を大切にした謙信らしい名言です。

【四十九年、一睡夢 一期栄華、一杯酒】

この言葉は謙信が人生最後に読んだ辞世の句です。
四十九年の我が人生は、一睡の夢のようにはかなかった。この世の栄華は一杯の酒に等しいという意味に当たります。
現代風に言い換えれば、一生懸命生きたが夢のように一瞬で、権力や財力も築いたが一杯の酒のように一瞬だった。という意味合いです。
なんともむなしい句に感じます。もしかすると、まだ成し遂げたかったことがあったのかもしれません。

上杉謙信の死因

100名城巡り NO.32春日山城 NO.33高岡城 NO.34七尾城 2019.5.5 | marsの城跡巡りと舞台観賞の日々

上杉謙信の死因は、春日山城の厠で倒れて、そのまま意識を回復することなく亡くなりました。脳出血だと言われています。
その要因になったのは、お酒好きと塩辛いものが好きだったことから考えると、高血圧を患っていた可能性もあります。季節がら越後の三月はまだ寒い時期ですし、食生活は不規則と、自分自身で死期を早めたのではないでしょうか。

まとめ:上杉謙信は義のある人物で最強の武将でもありました

上杉謙信は信仰心のある「義」を大切にした人物です。最強の武将と言われながら、決して私利私欲のための戦はしません。
真面目で律儀な性格から、家臣や他国の大名たちの信頼もありました。ただ時に、は家臣に裏切られることもありましたが、その行いを責めることはしませんでした。
数々の名言を残し、義を重んじる上杉謙信は、後世に残る人物でしょう。