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前田利家の子孫は?今何をしているのか、家系図や年表・家紋も解説

加賀百万石の基礎を一代で築き上げた前田利家。
織田信長に仕え、豊臣秀吉時代は五大老にまで出世した優秀な戦国武将であり、秀吉亡き後も唯一、徳川家康に対抗できる人物でした。
ただ気になるのが、利家亡き後はどうなったのか。子孫は、どのようにして前田家を現在まで、存続させたのか。
家系図や年表・家紋を含め、解説していきます。

前田家の子孫は?

前田家は戦国時代を生き抜き、江戸時代から令和と子孫たちにより、滅びることなく現在も存続してきました。
では具体的に、子孫たちは何をしているのか、

  • 前田家の子孫は現在何をしているのか
  • イノダコーヒーとの関り
  • 徳川家とは親戚関係

これら3つを解説します。

前田家の子孫は現在何をしているのか

現在は、加賀藩前田家、最後の当主「前田慶寧」公の「玄孫(孫の孫)」
「前田利祐(まえだとしやす)」さんが、18代前田家当主として前田家を守っています。
現当主は学習院大学卒業後、「日本郵船」に入社。「日本郵船」グループ会社「八馬汽船」の常務取締役に就任。
その後、宮内庁委嘱掌典職(くないちょう、いしょくしょうてんしょく)を務め、石川県人会の会長や四高記念文化交流館初代館長など、歴任しています。
そして、前田利祐のご子息・前田利宜が19代目当主になるそうです。

イノダコーヒーとの関り

加賀藩・前田利家の直系の子孫である「前田利宜(まえだとしたか)」さんが、イノダコーヒー代表取締役社長を務めています。
イノダコーヒー創業は、昭和15年(1940年)で、現在、京都市内を中心に、コーヒー店を展開されてます。
また、利家の直系ではありますが前田利宜は、一度も金沢に住んだことがないそうです。

徳川家とは親戚関係

前田家と徳川家は親戚関係にあります。
3代目当主・前田利常(まえだとしつね)が、徳川幕府2代目・徳川秀忠の次女「珠姫(たまひめ)」を正室として迎えています。
2人の間には、三男五女がもうけられ、非常に夫婦仲も良かったそうです。
また、4代目当主・前田綱紀も、徳川幕府3代目・徳川家光の異母弟・保科正之の娘・摩須姫と婚姻するなど、江戸時代に入って、前田家当主の半分以上が、徳川家・松平家・徳川御三家(尾張・紀州・水戸)より妻を迎えていました。

前田利家の家系図

前田利家の年表

西暦出来事
1538年尾張の荒子城主 前田利昌の四男として生まれる
1552年萱津の戦いで初陣を飾る
1558年まつと結婚する
1559年織田信長の同朋衆である拾阿弥(じゅうあみ)を惨殺し処分を受け、浪人となる
1560年桶狭間の戦いに無断で参戦し、成功を収める
1561年森部の戦いで戦果を上げ、織田信長から帰参を許される
1570年姉川の戦いに参戦し、成功を上げる
1575年長篠の戦いに鉄砲奉行として参戦し、勝利する
1581年信長より能登一国を拝領する
1582年「本能寺の変」で明智光秀が謀反を起こし、織田信長が自害する
1583年賤ヶ岳の戦いにて、当初柴田勝家に付き参戦するが、途中から秀吉側に付いて勝家を倒す
1584年小牧長久手の戦いで、佐々成政を倒す
1590年小田原征伐 北国の大名(上杉景勝・真田昌幸)らを指揮し、北条領地に攻め込む
1598年五大老として、豊臣秀頼を補佐する
1599年大坂にて死去。享年62歳

前田利家の子孫と天皇との関係

前田利家の子孫と天皇家の関係は、前田利常の五女「富姫(ふうひめ)」が22歳で、江戸時代前期の皇族である「八条宮智忠親王(はちじょうのみやともただしんのう)」に嫁いだことがきっかけで、天皇家と親戚関係になりました。
しかし、2人の間には子供ができなかったので、後水尾天皇11代皇子の穏仁親王(やすひとしんおう)を養子としています。
また、八条宮智忠親王は前田家の援助を受け、桂離宮の御殿を改築し、庭園を整備するなどして、現代にも残る遺産を築きました。

前田利家の家紋は

前田利家の家紋は「加賀梅鉢」と言われています。
何故かと言うと、菅原道真の子孫と自称していたことから、家紋を道真ゆかりの「梅鉢紋」にしたのです。
理由として考えられるのは、加賀国の北陸地方では「天神信仰」があり、管原道真を「天満大自在菅天神(てんまんそらみつだいじざいてん)」として祀っていました。
天神信仰は、長男が生まれた正月に、菅原道真が描かれた掛け軸と道真の木彫り人形を飾る風習があります。
利家は、その風習を活かし、人の心をつかめると確信したと思われます。
管原道真の子孫と自称し「梅鉢紋」を使用したのも、加賀百万石を達成する手段の一つと考えられるでしょう。

前田利家の子孫に関するQ&A

加賀百万石の基礎を築いた前田利家。利家亡き後、前田家はどうなったのか。
子孫はどうなったのか。
その具体的なことは

  • 前田利家の家族はどうなったのか?
  • 江戸時代の前田家は?
  • 前田家(加賀藩)はなぜお金持ちになったのか

この3つについて解説します。

前田利家の家族はどうなったのか?

妻(まつ)家康から謀反の嫌疑をかけられ、戦いを避けるために自ら江戸城に人質として出向き、14年間江戸城にて過ごす。
長男(利長)家康と一時、対立するも母(まつ)を人質とし、戦いを避ける。関ヶ原の戦いでは東軍につき、成果を上げ領地を得て、加賀藩初代藩主となる。
次男(利政)関ケ原の戦いでは西軍に付き、領地を兄に引き渡すし、大阪の陣では中立の立場をとる。
三男 (知好)利長の命により出家するが、また武将に戻る。
四男 (利常)母は側室・寿福院 利長に後継がいないので養子になり、2代目将軍・徳川秀忠の五女(珠姫)を妻にする。
五男 (利孝)幼年期に徳川家の人質となり、まつと共に江戸で過ごす。大坂の陣にて、徳川に付き、成果を上げた。母は側室・明運院。上野七日市藩の初代藩主
六男 (利貞)幼年期は利家に付き、神谷守孝に養育される。神谷氏を継ぐが前田性に改める。大坂の戦いでは徳川家に付き、後方支援をする。
長女(幸姫)前田長種の妻になる。
次女(粛姫)中川光重の妻になる。
三女(摩阿姫)豊臣秀吉の側室となる。
四女(豪姫)秀吉の養女、宇喜多秀に嫁ぐ。
五女 (与免)浅野幸長に嫁ぐも若くして早すぎる死を遂げています。
六女 (千世)細川忠隆に嫁ぐも離婚する。その後村井長次と再婚する。

江戸時代の前田家は?

前田家は、江戸時代も滅びくことなく生き延びていましたが、2つの金銭的な負担があり、生活が苦しかったようです。
1つ目は、財政負担です。
巨大な藩を支えるため、出費がかさむ中、更に悪天候が続き凶作となり、貯蓄を切り崩しました。このことも原因の一つと言えます。
2つ目は、幕府からの補修事業による負担です。
江戸城や日光東照宮の修理、東海道の古田大橋や甲斐・美濃の河川の補修を命ぜられ、そのすべての費用は、前田家がだしています。
それに加えて、6代藩主(宗辰)から10代藩主(治脩)まで、兄弟で藩主を継ぎましたが、兄弟達が皆、短命なため、政権が安定せず、政策も長続きしなかった事も要因と言えるでしょう。

江戸時代の前田家は、大大名であるがゆえに、経費も莫大であり、幕府からの監視もあり、負担を強いられた部分があり、そのため、生活はかなり質素であったことが伺えます。

前田家(加賀藩)はなぜお金持ちになったのか

前田家は、石高を得るために功績を上げ、加賀百万石といわれる程のお金持ちになりました。
始まりは前田利家が、得意の槍を使い、信長から「日本一の無双の槍」とまで言われ、功績を上げます。
結果を出し続けた事で、信長より能登一国、23万石を与えられるまでになり、信長が本能寺の変にて死去した後、豊臣秀吉に付き、柴田勝家を倒し、加賀半国、20万石を得ます。
その後、小牧・長久手の戦いで、佐々成政を倒し、越中国20万石を手に入れ、合わせて約80万石となったのです。
利家死去後、利長が関ヶ原の戦いにて東軍に付き、勝利したことで、徳川家康より領地を得て、加賀百万石に達します。

前田家は、利家に続き、子孫も功績を上げて石高を得てきました。そして、様々な苦労はありましたが、維持する努力をしたことで、お金持ちになったのでしょう。

<まとめ>前田利家の子孫は現在でも前田家を存続させていた

前田利家の子孫は、利家が築いた加賀藩の基礎をさらに発展させ、百万石となり盤石な体制を整え、現代まで存続させてます。
まつを徳川へ、人質に差し出したりするなど、苦渋の決断をしながらも、苦難を乗り越えて、徳川家・天皇家とも婚姻関係を結ぶなどして、幕府や対外関係も抜かりなくしてきました。
他の藩が没落する中、存続してきたのは、総合力で勝ってきた前田家の子孫が優秀だったのでしょう。

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