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【真田幸村の性格】逸話や名言・人物像や歴史までを徹底解説

現在に至るまで、絶大なる人気を誇る真田幸村(本名・真田信繫)。
ドラマやゲームなどでも、数多く取り上げられている戦国時代の大名であり、日の本一(ひのもといち)の武将とも言われています。
これほどまで有名な武将ですが、果たして幸村は、どんな性格の持ち主だったのか?そしてどんな人なのか?
逸話・エピソードなどから、性格を解説していきます。

真田幸村の性格は?

真田幸村(真田信繫)という人物はわかると思いますが、性格はどうなのかまでは、知らない人もいるでしょう。
そこで、幸村の性格について紹介します。

温和で明るい性格だった

真田幸村の性格を兄・信之は、「物事に対する態度はものやわらかで忍耐強い。言葉数は少なく、怒ったり腹を立てたりすることはない」と評しています。
こうした性格は、幸村の若かりし頃の人質生活が影響しているようです。
上杉家・豊臣家の、二度の人質生活を経験した幸村ですが、いずれの君主にも大変気に入られ、厚遇されていました。
このような経験から幸村は、温和で明るい性格の持ち主だったといえるでしょう。

身分に関係なく人に接する性格

真田幸村は、父・昌幸とともに関ケ原の戦いで西軍・豊臣方についたため、九度山へ流され厳しい生活を経験していますが、しかしそんな中でも幸村は、地域の村人や猟師、地侍とも分け隔てなく交流したといわれます。
そんな幸村だからこそ、大阪の陣へ参戦する際、共にしたほとんどの従者が、正式な家臣ではなく、九度山の生活で出会ったこうした地域の人々だったのも納得です。

自由奔放な性格

真田幸村は、典型的な次男坊気質で伸び伸び育っていたといえます。
幸村は、真田家を継ぐ必要のない身ではありましたが、父の仕官先に伴い、上杉家・豊臣家での人質生活を経験し、自らの家より大きな各家で、戦国時代の戦い方や家風など、多くのことを吸収していったと考えられます。
このような経験から、どのような環境でも柔軟に適応し、自由な生き方を出来る性格に、なったのではないでしょうか。
また次男であったこと、兄が徳川方についていたからこそ、真田家の存続を兄に任せ、死を覚悟で大阪の陣に参戦することができたとも言えます。
そういった意味では自由奔放な性格ともいえるのかもしれません。

真田幸村の逸話・エピソード

真田幸村の逸話・エピソードは数多くありますが、その中でも有名な逸話・エピソードを2つ解説します。

大阪の陣での逸話

大阪の陣は、江戸時代初期、大坂城で行われた2つの戦いの総称で、「大坂冬の陣(1614年11~12月)」と「大坂夏の陣(1615年4~5月)」になります。
この戦いで徳川家康は、大坂城にこもる豊臣秀頼を攻め滅ぼし、名実ともに天下統一を果たすのですが、その家康を最後に脅かした武将が、真田幸村なのです。
冬の陣では真田丸での果敢な戦いで家康を苦しめ、夏の陣では決死の覚悟で家康軍に奇襲攻撃を仕掛け、家康の本陣まで攻め込み、家康に自刃を覚悟させるという逸話を残し、日本一の兵(ひのもといちのつわもの)として名を残しました。

家紋・六文銭にまつわるエピソード

真田家の家紋は、六文銭(ろくもんせん)・六連銭(ろくれんせん・むつれんせん)ともいわれます。
もとは東信濃の豪族海野氏の家紋であり、その流れをくむとしている真田氏も家紋として、この六文銭を選んだようです。
六文銭とは仏教説話に由来するもので、三途の川を渡る船賃として、死者の副葬品として一般的でした。
別の呼び名で、六道銭(ろくどうせん)とも呼ばれ、輪廻転生する六道の世界に、それぞれお供えするものでもありました。
武士がこの家紋を使用したのは、仏教では禁じられた、殺生を行う自らの魂の救済を求める意味もありましたが、常に死と隣り合わせである武士の、覚悟を表す意味が強いといえるでしょう。
また、真田家家紋として有名な為、真田銭とも呼ばれる六文銭ですが、真田幸村は、大阪の陣では徳川軍に居た兄・信之を配慮し、六文銭の旗を使用しなかったという説があり、幸村の兄への心遣いを感じることができます。

真田丸とは?

真田丸とは、1614年の大坂冬の陣で、徳川方を迎え撃つ為に真田幸村が築いた出城です。
ただ、そこは土塁や柵、堀で区画されたようなものだった為、曲輪(くるわ)と表現する文献もあります。
大阪冬の陣で豊臣方へ馳せ参じた幸村は、城から出て積極的に野戦を仕掛ける策を主張しましたが、豊臣秀頼・淀殿らの主張が優先され籠城策を採ることになります。
幸村は、この籠城策において、最大の弱点となるのは、平坦な台地続きである南方であることを見抜き、出城を築く許しを得て真田丸を築いたのです。
そして自らその真田丸で指揮を執り、壮絶な戦いを繰り広げ、見事徳川方の攻撃を食い止めたのでした。

真田幸村の名言

真田幸村が残した名言の中で、豊臣家の忠義と、幸村なりの戦の戦い方を述べた、2つの名言を紹介します。

恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか

関ケ原の戦いにて、真田家が東軍につくか西軍につくか決断する際に、真田幸村が発した言葉です。
真田家は戦に強かった為、東軍へ取り込もうと莫大な報奨金を示されましたが、それを断固として固辞し、幸村と父・昌幸は大変な恩義があった、豊臣方へつくことを選択します。
私欲よりも恩義を大切にする、幸村の生き方を示す言葉といえるでしょう。

攻撃の手を休めなければそれこそが最大の防御になり得る

自分の軍が攻撃することを休めなければ、相手は防御するしかなく攻撃ができません。
それこそが自軍にとって、最大の防御となるという意味の言葉です。
日本(ひのもと)一の兵(つわもの)と称された幸村の戦い方の特徴を示す言葉です。

真田幸村の魅力・人物像は?

真田幸村の記録はほとんど残っておらず、彼を有名にしたのは、彼の人生の最終盤に訪れた、大阪の陣での活躍といっても過言ではありません。
特に最後の戦いであった夏の陣では、完全に追い込まれた豊臣方に残ることを決意し、豊臣方を最後まで支えるという死を覚悟した選択をしたのです。
また、その最後の戦いでは、敵陣の大将である徳川家康を、あわやというところまで追いつめるという驚異的な戦いを繰り広げ、その勇猛果敢な姿は人々に驚きを与えました。
このような幸村の最後まで義を貫く姿と勇猛果敢な姿が、物語として後世で広く伝承され、数多くの人の心を掴むほど魅力ある人物だと言えるでしょう。

真田幸村の最後【死因も解説】

真田幸村の最後は、大阪夏の陣での討死です。
大阪冬の陣での不利な講和条約により大阪城の盤石な守りであった外堀、内堀を失い、そして真田丸も失い、数の上でも兵士の質の上でも圧倒的な劣勢であった豊臣方に残って戦いに挑みました。
この戦いに際して幸村は、死を覚悟していたことが彼の手紙から明らかです。
しかし、圧倒的な優勢を誇る徳川軍に幸村は追い込れ、最後は、神社の境内で痛手を負った身を休めていた際に、徳川方の武将に出くわし、討ち死にするのでした。

真田幸村の歴史【生涯年表】

西暦(年齢)出来事
1567年(0歳)真田昌幸の次男として信濃国(現在の長野県)で生まれる。(1570年誕生という一説もあり)
1575年(9歳)長篠の戦い勃発。父・昌幸が真田家を継ぐ。
1585年(19歳)父・昌幸が上杉景勝と同盟。幸村は上杉家の人質として越後国へ。
1587年(21歳)父・昌幸が豊臣秀吉と同盟。幸村は人質として大阪城へ。
1598年(32歳)豊臣秀吉病死。幸村は父・昌幸の元(上田城)に戻る。
1600年(34歳)関ヶ原の戦い勃発。西軍が負け、幸村と父・昌幸は九度山へ流罪。
1611年(45歳)父・昌幸が病死。
1614年(48歳)大坂冬の陣勃発。豊臣軍へ参戦。
1615年(49歳)大坂夏の陣勃発。豊臣軍へ参戦した幸村討死。

真田幸村の戦一覧

真田幸村が参戦した戦は実はそれほど多くはないのです。

  • 1590年(23歳) 小田原征伐
    豊臣秀吉の小田原征伐に父・昌幸、兄・信之と参戦。これが幸村の初陣とされています。
    幸村は、石田三成のもと、大谷吉継らと協力し戦ったとされます。
  • 1600年(34歳) 第二次上田合戦(関ヶ原の戦い)
    関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)への参戦を決めた真田幸村と父・昌幸は、居城である上田城にて、東軍(徳川方)の徳川秀忠率いる別働隊を迎え撃ちます。
    しかし、関ケ原の戦いは西軍が敗北して、幸村と父・昌幸は罪人として九度山へ流されました。
  • 1614年(48歳) 大阪冬の陣
    豊臣方からの招聘(しょうへい)の連絡を受け、九度山に居た真田幸村は大阪城へ馳せ参じます。
    自身が築いた真田丸での壮絶な戦いで奮闘しますが、豊臣方は徳川方からの和睦を受け入れることとなります。
  • 1615年(49歳) 大阪夏の陣
    大阪冬の陣での徳川方に有利な和睦の後、大阪夏の陣が勃発し、真田幸村は、豊臣方として引き続き参戦します。ですが、圧倒的に徳川方有利状況で、幸村は果敢に戦いに挑みますが、一歩及ばず最後の戦いに散ります。

真田幸村の兜と鎧

真田幸村といえば、大阪の陣で身に着けた赤備え(あかぞなえ)の兜と鎧が有名です。
赤備えとは、朱色の兜と甲冑であり、戦国の世で最強軍団として名を馳せた、甲斐・武田の赤備えが祖でした。
一方幸村率いる真田軍は、大阪の陣にてこの赤備えを採用して、戦国最後の大一番である大阪の陣での活躍と相まって、戦場の地で、華々しく咲く花のような輝きをみせたに違いありません。
また兜には、朱色の兜に神の化身として、大切にされてきた鹿の角、そして真田の家紋六文銭があしらわれており、戦国武将・真田幸村を表す印象的なデザインとなっています。

真田幸村ついてのQ&A

真田幸村はかっこいい?

真田幸村といえば、現在のゲームなどの、イケメンキャラクターとして人気を博していますが、実際の見た目はどうかと言うと、記録が残っているのは、大阪の陣での幸村です。
幸村は小柄だったようで、自身の手紙によると髭も白く、歯も抜けていました。
九度山での生活を経た、晩年の幸村の風貌に関する記録なので、若かりし頃からは、変貌を遂げた可能性もありますが、現在描かれるような風貌とは少々違いがあるようです。

兄・真田信之はどんな人

真田幸村の兄・真田信之は真田家の嫡子として育ち、数々の主君に仕え戦国の世を生き抜く父・昌幸の背中を見て育ちました。
性格は弟と同様、温厚ではありましたが、嫡子として真田家を存続させるという責任を強く意識しており、時に冷静で合理的な選択をして、生き残る能力を持った人物です。
関ケ原の戦いでは、東軍につくことを選び、西軍についた父・昌幸と幸村とは袂を分かつこととなりますが、その選択は真田家を存続させる選択に他なりませんでした。
また、信之は、関ケ原の戦いの後、父と弟の助命嘆願を通し、その後も九度山での生活を仕送りで支え続けており、このことからも真田の家族の絆の深さがうかがい知れます。

なぜ真田信繫から真田幸村になったのか

真田信繁は幸村の本名になります。
実は、本人が幸村と名乗ったことはなく、幸村という名前は、江戸時代に書かれた軍記物で使われ、人気を博したもので、それを機にこの名前で広く知られるようになったのです。
ただ、大阪冬の陣にて幸村と名乗り始めたという説や、幸村の名前の由来は、父・昌幸から「幸」を、徳川に仇を成す名刀村正を使用していたことから「村」をとり幸村となったという諸説があり、確かなことはわかっていません。

<まとめ>真田幸村は情と義理のある人望に厚い性格を持っていました

幸村の人生の大半は、決して派手な働きをした訳ではありません。
しかし、戦国の世で度重なる試練にも、情と義理の性格を武器にしなやかに生き抜き、最後は私欲ではなく、恩を受けた豊臣家への忠義を守り抜き、大阪の陣に臨み、日本一の兵といわしめる戦いを体現し、力強く散っていったのでした。
こうした幸村の性格と生き方は、現在に至るまで多くの人の心を惹きつけているのです。