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毛利元就の性格とは!逸話・名言・生涯やどんな人だったのかを解説

毛利元就と言えば、息子たちに説いたとされる「三本の矢」逸話や、日本三大奇襲の一つに数えられている「厳島の戦い」での計略で見事な勝利を収めた人物です。
ですが、その一方では、両親を早くに亡くし、家臣の裏切りで過酷な生活をしていたことなど、意外と取りざされていない部分も数多くあります。
では元就はどのような人生を送ったのか、また知将としての元就の性格はどうだったのか?逸話や名言そして毛利元就の家紋や兜も含めて解説します。

毛利元就について(簡単なプロフィール)

毛利元就(もうりもとなり)(1497~1571年)は、室町時代後期から戦国時代に活躍した安芸(現在の広島県西部)の戦国大名です。
幼少期に両親を失い、19歳で兄も失い、さらに甥まで亡くなったことで、次男にして毛利家の家督を相続した後、一代で中国地方のほぼ全域に至るまで、領土を拡大さ戦国時代を代表する名将として言われています。
そして、元就の子孫は長州藩藩主となったため、同藩の始祖でもあります。
また、元就は筆まめなことでも知られており、三人の息子たちに向け「三子教訓状」を作成し、この教訓状を基に有名な逸話「三矢の訓(みつやのおしえ)」が生まれたとされます。

毛利元就の性格

毛利元就は、幼少の頃の辛い経験があったことで、その後の元就の性格に影響していると思われます。
戦をするのも、確実に勝つ方法を考えてから行動し、人を見下したこともせず、早くに両親や兄を亡くし家族愛を実感することができなく育ったことから、元就らしさが出ている3つを紹介します

  • 堅実な性格
  • 幼少の頃からの経験から、気配り上手な性格であった
  • 愛妻家で家族思いの性格

堅実な性格

毛利元就は、幼少期の過酷な生い立ちの影響もあり、堅実な性格の持ち主といわれます。
200以上の戦に出陣した元就ですが、派手な戦いよりも、調略による勝利に長けていた知将として知られ、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)等で見せた用意周到かつ緻密に計算された策略の数々から、堅実な性格が垣間見えます。
また、元就は「天下を競望せず」と語り、自分の代での勢力拡大を望まない意志を明らかにしており、その意向は、息子や孫の代に至るまで、元就の「遺訓」として毛利家に浸透していったといわれ、ここにも元就の堅実さが見て取れるのです。

幼少の頃からの経験から、気配り上手な性格であった

毛利元就は、早くに両親を亡くし、家臣に裏切られ城を追われ、幼少の頃は大変な困窮した生活をおくるという経験したことから、周囲の人に対する細やかな気配りを忘れない人物だったといわれます。
また元就は、「いつも餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしていた」といわれ、わけ隔てのない性格の人物として家臣や民に親しまれていたようです。
こうした細やかな気配りや、わけ隔てのない性格が、国人衆の集まりで作られ独立性が強い、毛利家の家臣団をまとめあげることに、大きな効果を発揮していたと考えられます。

愛妻家で家族思いの性格

毛利元就の正室・妙玖(みょうきゅう)は、政略結婚で毛利家に嫁ぎましたが、二人は大変仲睦まじい夫婦だったようです。
元就は妙玖の存命中、ひとりも側室を娶らなかったといわれ、戦国一の愛妻家とも称され、妙玖が亡くなった際は、あまりの悲しみに3日間部屋にこもり泣いていたそうです。
また、妙玖の死後に元就は、息子たちに宛てた手紙の中には、「母の供養を怠らないように」等、妙玖に関する言及が多数あることからも、妻に対する想いの深さが伺えます。
更に元就の家族思いの性格は、子や孫に向けた書状も数多く、現代に伝え残されています。

毛利元就はどんな人なのか?

毛利元就の性格から見て、先々のことを考えて行動していたように感じます。真面目で知将でもありました。
では元就はどのような人物として周りから見られていたのか?実際はどんな人だったのかを紹介します。

  • 知性と武力に長けていた
  • 健康に気を付けていた
  • 毎日念仏を十回唱えていた

生真面目な部分やちょっとオタク的要素もある元就という人物を紐解いていきましょう。

知性と武力に長けていた

毛利元就のとった軍事または政治政策として有名なのが、毛利両川体制(もうりりょうせんたいせい)です。
元就は、息子の次男・元春を吉川家に、三男・隆景を小早川家に養子に出し、その後調略により後継者を亡きものとし、息子それぞれに、吉川家、小早川家の家督を継がせることに成功し、ここに毛利両川体制が成立します。
この体制により、元就は、吉川元春の陸軍、小早川隆景の水軍を手に入れ、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)では、大胆な奇襲戦を見事に成功させ、勝利しました。
そして、この厳島の戦いでの勝利に弾みを付けた元就は、出雲の尼子氏の討伐にも成功し、中国地方のほぼ全域を手中に収めることとなったのです。
このような政策と武力の相乗効果で、元就や息子や孫の代でも毛利家は、戦国時代を生き残れたといえるのかもしれません。

健康に気を付けていた

毛利元就は、75歳という当時にしては、長寿をまっとうした人で、その秘訣を節酒と語っていたと言われています。
父と兄を、酒害(アルコール中毒)により、20代もしくは30代で亡くしており、その経験がかなり大きく、元就自身は、酒を飲むことを極力避けていたようです。
そして、息子や孫にも節酒を幾度となく説いた元就の書状が残されており、家訓の一つとなっていたようです。
また元就は、戦国きっての名医曲直瀬道三(まなせどうさん)とも交流があり、彼の説く食事法「五味五色」(ざまな彩りの食材を、旬の時期にバランスよく味つけして食べ、食べ過ぎも空腹になり過ぎることも避けるというもの)にも、従っていたとされます。
このように、贅沢をせず、野菜、瀬戸内海で捕れた新鮮な小魚など、バランスの取れた食生活と節酒を心がけることが、長寿の秘訣だったようです。

毎日念仏を十回唱えていた

毛利元就の過酷な幼少時代を支えてくれたのが、養母であった杉大方(すぎのおおかた)です。
杉大方は、元就の父・毛利弘元の後妻で、弘元の死後、幼少の松寿丸(後の毛利元就)を不憫に思い、実家にも帰らず、他の妻となることもせず、松寿丸の養育に専念したと言われています。
元就の人格形成に、杉大方の影響は大きなものがあり、後に元就は彼女への感謝の言葉を多く残しています。
また、杉大方は「毎日、朝日を拝んで、御仏(みほとけ)への感謝の気持ちを込めて、念仏を10遍ずつ唱えるのですよ」と繰り返し元就に言い聞かせていたと伝えられ、終生にわたり、この杉大方からの教えである「朝日を拝む念仏」を毎朝欠かさず行ったそうです。
この元就の行いは、杉大方への深い感謝と尊敬の念の現れともいえるのかもしれません。

毛利元就の生涯年表を簡単に解説

毛利元就の人生の中での、おおまかな出来事を年表として解説します。

1497年安芸の国人領主、毛利弘元の次男として生まれる。幼名は松寿丸。
1511年14歳で元服して元就と名乗る。
1516年(19歳)家督を継いでいた兄、興元が急死。その子、幸松丸が家督を継ぐがまだ幼かったため、元就が後見人となる。
1517年「有田中井手の戦い」にて初陣を飾る。同年に吉川家・娘妙玖と政略結婚する
1523年幸松丸がわずか9歳で死去。元就が毛利家の家督を継ぐ。
1525年尼子氏との関係を断ち、大内義興の傘下となる。
1529年尼子派の安芸の国人、高橋一族を討伐。安芸から石見にかけて広大な領地を手に入れる。
1537年長男の毛利隆元を大内氏へ関係強化のため人質として差し出す。
1540年「吉田郡山城の戦い」尼子詮久率いる3万の軍勢が毛利の本拠地吉田郡山城を包囲。元就は3千の兵で籠城。3カ月耐え抜き、大内氏が送り込んだ陶晴賢の援軍もありこれに勝利する。
1544年三男、隆景を安芸の国人、小早川氏のもとへ養子に出す。
1546年元就は隠居し、家督は長男の隆元に譲る。
1547年次男、元春を安芸の国人、吉川氏のもとへ養子に出す。(毛利両川体制の確立)
1551年大内義隆の家臣、陶晴賢が謀反。大内義隆は自害し、大内氏の実権は陶晴賢が握る。
1554年隆元がしきりに陶晴賢との手切れを説いたことや、一度認められた支配権を返せと陶が言ってきたことを理由に陶晴賢と決裂する。
1555年「厳島の戦い」3万を超える陶晴賢の大軍を厳島へおびきよせ、4千~5千の毛利軍がこれを奇襲。村上水軍の来援もあり勝利する。これを機に大内氏は弱体化。元就は長門、周防などの領地を手に入れる。
1562年尼子氏の本拠地、出雲への侵攻を開始する。
1563年長男で当主の隆元が急死。
1565年翌年1566年まで続いた、「第二次月山富田城戦い」尼子氏の居城、月山富田城を包囲。
尼子氏は投降、城を明け渡す。元就の勝利に終わり、尼子氏は滅亡。
毛利氏は中国地方8か国を支配する大大名となる。この戦いで元就の孫、輝元が初陣を飾っている。
1571年75歳で死去。死因は老衰、または食道癌と言われている。家督はすでに孫の輝元に継承済みだった。

毛利元就の家紋・兜の由来

【家紋の由来】
毛利元就の家紋は「一文字三星」です。
3つの黒点は、オリオン座の中央の星を表しおり、中国ではこの3つの星を「三武星」もしくは「将軍星」と呼び、戦いの神としてあがめられていたそうで、このことから、武家の家紋として毛利家だけでなく、広く使われていました。

一文字は「かたきなし」無敵、あるいは勝という意味合いがあり、この家紋は、毛利家が代々使ってきたと言われています。
毛利家の祖先は、鎌倉幕府で源頼朝の側近として仕えていた大江広元(おおえのひろもと)更に、その大江氏の祖は、平安時代初期の平城天皇の第一皇子である阿保親王(あぼしんのう)
この阿保親王、承和の変にて、反乱を未然に防いだ功績により、死後、律令制において最も高い品位である一品(いっぽん)を賜り、「一品」が家紋の図案と考えられます。

【兜の由来】
毛利元就が使用していた兜は「金の三つ鍬形(くわがた)」で、中央は不動明王が持っている「倶利伽羅剣(くりからけん)」を表しており、その左右に鍬形を合わせたものです。
兜の正面につける装飾物を前立てと言いますが、
毛利元就が使用していた兜は、「阿古だ陀成」という頭部が膨れ上がった筋兜で、もっとも美しい形と評され、室町時代に流行りましたが、美しさを追求したためか、制作に時間がかかることと、頑丈さに欠けてしまい、戦国時代には衰退していきました。

ですが、元就は「阿古だ陀成」を使い続けています。
毛利家に代々伝わる前立てと兜は、元就自身こだわりを持っていたのか、持っていなかったのか、定かではありませんが、おそらく毛利家に代々伝わるものを大切にし、知略・謀略もめぐらし、中国地方を制圧した元就にとって「流行りの兜」など、特にこだわりがなかったのかもしれません。

毛利元就の矢の話

毛利元就と矢と言えば、「三本の矢の教え」が有名です。
息子三兄弟に、1本の矢ではもろく、簡単に折れてしまうが、3本束ねれば強固なものになるとし、元就は「三兄弟、力を合わせて毛利家を盛り立ててくれ」と訴えました。
これが「三本の矢の教え」の内容ですが、この話自体は作り話で、そもそも、元就よりも長男である隆元の方が早くに亡くなっていることから、この状況はありえません。

話の元になっているのは、「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」ですが、
これは、元就が三人の息子たちに対し、一致団結して毛利家を盛り立てていくようにと諭した、14カ条にも及ぶ書状です。
単に一族の団結を説いた教訓では終わらず、元就の政治構想を息子たちに伝えた内容でした。

その「三本の矢の教え」は江戸時代になってから創られた話で、史実と比べると、「一致団結して毛利家を盛り立てよ」と言う部分は共通していますが、史実に「矢」は登場していません。
また、先ほども説明したように元就の死に際にいたのは、実際は長男の隆元ではなく、三男の隆景と孫の輝元だったようです。

毛利元就の逸話・エピソード

毛利元就の逸話・エピソードは、数多く残されていますが、その中でも、天才と言われる戦の戦い方や逆に苦労した出来事、真面目過ぎる性格や人物像が垣間見える、逸話やエピソードを3つ紹介します。

  • 天才がゆえの苦労のエピソード
  • 育ての親 杉の大方の逸話
  • 厳島の戦いでの逸話

天才がゆえの苦労のエピソード

毛利元就は、天才や策士と言われ、武将としてその名をはせていました。
天才であまりにも大きすぎる存在だったのか、真面目過ぎるエピソードがあります。
それは、元就が50歳の時に、隠居しようと長男・毛利隆元に家督を譲りますが、隆元は「自分には毛利家を上手く統治できない」と拒否され、実権は元就がそのまま握ることになりました。
その後も、戦を重ね、中国地方や九州の一部も手に入れ、毛利家は強大になっていきました。

元就が70歳の頃、約3年前に長男・隆元が死去していたため、孫の毛利輝元が家督を継いでいましたが、元就自身も度重なる戦や年齢から、今度こそはと隠居しようとしました。
でも輝元は「大きくなった毛利家を私一人で統治するのはムリです。」と言われてしまい、75歳で亡くなるまで実権を握ることになります。
子供や孫からの懇願とは言え、2度も隠居を、あきらめなければならなかったのは、天才がゆえの苦労だったことと、真面目過ぎるエピソードとも言えるでしょう。

育ての親 杉の大方の逸話

毛利元就は幼少の頃、つらい経験をしています。
4歳で母を亡くし10歳で父も亡くなってしまいました。さらに毛利家の家臣・井上元盛に領地と城を奪われ追い出されてしまいました。
心の傷をおった元就を癒し、生活を支えてくれたのが、父・毛利弘元の後妻・杉の大方でした。
そんな元就に、傷を癒すためなのか、杉の大方から信仰を教わり、亡くなるまで毎朝欠かさず念仏を唱えていたと言われています。

元就は晩年、杉の大方について
「私は5歳で母を失い、10歳で父も失った。さらに11際の時に兄が京都にのぼり、みなしごになってしまった。それを見た杉の大方があまりに不憫に思われたのか、私を見捨てずに再婚もしないで育ててくれた。」と書き残しています。
また、杉の大方が亡くなった時には、若社という社を立てさせ弔ったそうです。
元就にとって杉の大方との生活は、その後の人生に大きな影響を与えてことは間違いないでしょう。

厳島の戦いでの逸話

毛利元就と陶晴賢(すえ・はるかた)が戦った「厳島の戦い」は日本三大奇襲の一つに数えられています。
この戦は、元就の兵は3000~4000人に対して晴賢は2万~3万と言われ、到底勝ち目のない戦と思われますが、見事な計略であっという間に、元就の圧勝で終わった戦です。
その見事な計略は「大軍の陶軍を狭い場所におびき寄せる方法」その場所が宮島です。
そのために「宮島に攻め込まれたら勝ち目がない」とデマを流したり、自分の家臣を裏切ったように見せかけ陶軍を厳島に誘導させるなど、情報戦を仕掛けます。

また、瀬戸内海を縄張りにしていた海賊の村上水軍をも味方に付けたりと、元就自身も実は背水の陣で、この戦に臨んでいます。
それは、戦前日の夜、嵐の中船で厳島に上陸し、乗ってきた船を沖に出してしまいます。
当然兵士たちは帰る方法が無くなり、どんなことをしても、勝つ方法しかありません。
その結果、死に物狂いで戦い、陶軍は狭い厳島で身動きが取れず、元就に敗れ陶晴賢は自害します。
元就はこの「厳島の戦い」で優秀な武将として有名になります。

毛利元就の名言

一年の計は春にあり、一月の計は朔にあり、一日の計は鶏鳴にあり

「新しい一年の計画は、その年の初めに、月の計画は月の初めの日に、今日の計画は朝早くに立てなさい」という意味です。(朔というのはその月の初めの日のこと。鶏鳴というのは一番鶏が鳴く早朝のこと。)
ようは、何事も早く計画を立てて、事を進めなさいということです。

百万一心

元就の居城である吉田郡山城の工事に使用した石碑に書かれていた言葉です。
この石碑は「百」の字の一画を省いて「一日」、「万」の字を「一力」と崩しており、縦書きで「一日一力一心」と書かれています。
「国人が皆で力を合わせれば、何事もなしえること」を意味しています。
郡山城・本丸の石垣を修復する際に、工事がかなり難航し人柱を立てることになりましたが、元就は反対しその代わりに、石に「百万一心」と彫らせ、なんとか無事に修復を終えました。
そして、人命を尊び、皆で心と力を合わせてことにあたるよう教えたと言います。

毛利元就の最後は?

元就は60歳前後より体調を崩し始めており、尼子氏との戦いによる疲労もあってか、大病を患ったこともありました。その後も全開と病気を繰り返しながら、なんと最後の戦場に赴いたのは70歳の時でした。
しかし、その最後の出陣から1年後、元就は床に臥してしまいます。原因は食道がんや老衰とも言われていますが、はっきりとした病名は、定かではありません。
そして息子の吉川元春・小早川隆景、孫の輝元を集めて訓戒します。「むやみやたらと天下を望むような野心を起こさないようにと」
この時、京では織田信長が力を伸ばしており、安易に天下を狙おうとすると、逆に買えりうちに合う可能性もあるからです。この言葉は堅実な元就の性格を表している一言と言えるでしょう。
そして、1571年6月14日、吉田郡山城にて逝去します。享年75歳。
翌日、亡骸は吉田郡山城近くの大通院に移され、埋葬されました。

まとめ:毛利元就は有能な武将であるが、天下ではなく
    毛利家を大事にする情のある人でした     

毛利元就は、過酷な人生を経験したことから、家族や家臣、身分の低い人たちへの気配りが上手な人でした。
また武将としては、知力に長けており、小領主から中国地方全体を収めるまでになりましたが、堅実な性格から、天下を取ることを望まず、自分の領地を守ることに徹して、一族の繁栄を望んでいました。
これは毛利家の家訓として代々に受け継がれ、領土を広げる事はなかったようです。
戦国大名でもない元就が一国一城の主になれたのは、大きな欲を欲しなかったことと、真面目で人に対して情のある行動をしたことかもしれません。