北条氏康の凄すぎる家系図!歴史や存亡の危機・子孫について解説

北条家一族は、関東一の戦国大名にまで登りつめて、およそ100年にわたって君臨しました。
その中でも最も功績のある北条氏康は、武勲のみならず、領国の統治に力を入れた名君と言われています。
五代に渡った後北条一族の華麗なる家系図と、滅亡までの歴史、そしてその子孫まで気になる後北条氏の情報を詳しく解説していきます。

北条氏康の家系図

北条五代の歴史を簡単解説

北条家は武力で領土を広めただけでなく、上杉家や武田家との抗争にあけくれながら、北条を名乗ってブランド化に成功、先進的な領国経営を行うなど、戦略的に勢力を拡大していきました。
その大きな貢献をしたのは

  • 北条早雲(初代)
  • 北条氏綱(二代目)
  • 北条氏康(三代目)
  • 北条氏政(四代目)
  • 北条氏直(五代目)

この北条家五代目までを解説します。

北条早雲(初代)

北条早雲は素浪人から戦国大名に登りつめ、約100年にわたって関東の支配する北条氏を起こした人物ですが、室町将軍の家臣だったとも言われ、謎の多い人物です。
1476年は、駿河国を支配する姉の嫁ぎ先である、今川家の家督争いを仲裁し、甥今川氏親を当主にし、今川家の守護代格となります。
1493年、関東管領である山内上杉氏と扇谷上杉氏(おうぎやつうえすぎけし)の対立を背景に、早雲は伊豆の堀越御所を奇襲。
1495年には、相模国の小田原城を奪取します。
小田原城攻略はたいまつの火を付けた牛を使った火牛攻めが有名。そして三崎城を攻略し、相模国を制圧しました。
また当時としては先進的な領国経営を行い、納税システムを変えたり、戦国大名初の検地を行ったりと、早雲は裸一貫といえる立場から2か国を有する大名にのし上がったのです。

北条氏綱(二代目)

北条氏綱は本城を小田原城に移し、伊勢の姓から北条姓へ改姓するなど北条氏の基礎を築き、関東管領に補任するなど着実に北条氏の勢力を拡大しました。
1518年には、早雲が隠居し、家督を相続しました。
関東の大名にとって北条氏は侵略者であり、改姓することにより、よそ者のイメージを払拭し鎌倉幕府を支配した執権北条氏の継承することを対外的に示し、寺社修築を相模国の主の名前で行うことで、北条氏が相模を支配していると、宣伝が目的とも言われています。
1536年頃、当主となった今川義元や婚姻を結んだ武田氏と対立し、氏綱は駿河に侵攻(河東の乱)。
当時相模国守護は扇谷上杉家でした。氏綱の妹が古河公方(こがくぼう)の足利晴氏に嫁いで、山内上杉憲政と管領が二人いる状態で関東管領に補任しました。
北条の領国は武蔵、駿河、下総にも及び関東の盟主としての地位を確立したのです。

北条氏康(三代目)

北条氏康は「相模の獅子」といわれる猛将であり、政治力にたけ、先進的な政策を実施するなど領国に善政を行い、政略結婚により関東を最大勢力に拡大させました。
領国においては六角目安箱の設置、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、家臣の軍役などの役負担を把握するなど領国支配の体制を整えます。
1541年に家督を相続し、対立関係だった今川家と、武田信玄の仲裁により和睦しました。
その後氏康は、日本3大奇襲戦として知られている「河越合戦の戦い」では、わずか8千人で夜襲をかけ約8万人の大軍に大勝利し、扇谷上杉を滅亡させ、山内上杉氏を関東からの排除に成功して、勢力を上野国まで拡大させたのです。
また、親戚関係にあった古河公方家の足利義氏に家督を委譲させ、氏康が関東管領としての執権を担います。
1554年には、政略結婚により今川氏、武田氏、北条氏が三国同盟を結び(甲相駿三国同盟)、氏康は北条の領国を強固なものにしたのです。

北条氏政(四代目)

北条氏政は上杉氏と武田氏と攻防を繰り返しながら、関東のほとんどを支配下に治めるほど北条氏の勢力を広げます。
父・氏康が隠居して家督を相続してから、上杉謙信が関東に侵攻し、上野国・武蔵の国衆が北条氏を見限り小田原城に攻撃し籠城(ろうじょう)するものの撃退しました。
1568年に武田信玄が三国同盟を破棄し駿河に攻め込んだため、氏政は今川家へ援軍を派遣します。
翌年、上杉謙信と手を組み、関東管領を譲渡・上野国譲渡をし、弟の三郎を謙信の養子にだすという条件で、越相同盟を結ぶ。
父・氏康没後、謙信と同盟を破棄し、武田家と再び同盟を結び(甲相同盟)、里見氏と和睦し下総・北上総を得ます。
結果的に徳川と同盟を結び、織田信長に従うことになります。
こうして北条氏の勢力を拡大しましたが、その後外交の失敗により豊臣秀吉が小田原征伐をおこし(小田原の役とも)、氏政は敗北し切腹しました。

北条氏直(五代目)

北条氏直の時代には、北条家の勢力は拡大していましたが、滅亡します。
父・氏政が隠居し氏直が家督を相続。
1582年に武田家が甲越同盟締結、再び敵対関係になり織田信長の力を借りて、武田家を滅亡させました。
しかし、本能寺の変で信長が亡くなった事で、乱世となり領地争いがおき、氏直も徳川家と対立関係(天正壬午(てんしょうじんご)の乱)が勃発します。
その後、織田信雄・信孝兄弟が仲介に入り、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで和睦し同盟が成立する。
1589年に、真田家と領土紛争がこじれ、北条家の家臣猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田家の名胡桃城(なぐるみじょう)を攻撃して占領。
この攻撃が惣無事令違反にあたるということで、小田原征伐が始まります。(惣無事令(そうぶじれい)とは大名同士の私闘を禁じるものです。)
そして豊臣秀吉に敗北しましたが、家康の娘督姫の婿であったことから助命されたものの、その翌年には死亡。
これにより北条家は戦国大名としては滅亡したのです。

北条政子と後北条氏の関係性と違い

北条政子の家系と北条氏康の正室に関係があるようで、氏康の正室・瑞渓院は、北条政子の父親・北条時政の血をひく系統ではと言われています。
ただ、はっきりとした詳細な資料がないため、間違いなく関係性があると断言はできません。
また、初代早雲の時代は伊勢氏を名乗っていましたが、2代目の氏綱が北条に改名しています。
理由として考えられるのは、鎌倉時代に相模国を支配していた北条氏の姓を名乗ることで、相模一帯を支配するための、正当性を主張する狙いとして考えられます。
後北条氏と言われるのは、鎌倉時代の北条氏と区別するために「後」を付けたと考えられます。
ただ、北条政子は伊勢平氏・桓武平氏の血統です。後北条氏も伊勢平氏を祖としていることから、血筋をさかのぼればどこかで繋がりがあるかもしれません。

北条氏康と早川殿・上杉景虎との関りとは?

北条氏・武田氏・今川氏は、甲相駿三国同盟が結ばれており、それぞれの嫡子に娘を嫁がせる婚姻同盟も含まれていました。
そのため、北条氏康は娘の早川殿を、今川家12代当主・今川氏真に嫁がせる事になります。
上杉景虎は、氏康の側近・遠山康光の妻の妹との間にできた息子・北条三郎です。
北条氏と上杉氏と越相同盟を結んだ際、上杉謙信から人質を条件を出され、氏康は息子の三郎を差し出すことにしました。
その後、上杉謙信は姪(上杉景勝の姉)と婚姻させ、三郎は養子となり、景虎となります。
しかし謙信の死後、景勝と景虎と家督相続を争うことになるのです。
また、甲相駿三国同盟や、相越同盟の成立に役だった早川殿も、上杉景虎も、北条家が関東への勢力拡大への足掛かりとなりました。

後北条氏滅亡とその後

1590年に後北条氏は豊臣秀吉と対立するも、小田原の役で敗北し、戦国大名としては滅亡しました。
ただ、五代目の氏直には子供がおらず、氏政の弟の子供が後継ぎになり、断絶はしませんでした。
小田原の役は半年以上の攻防が行われ、北条方は小田原城に籠城(ろうじょう)して戦いましたが、戦略方針が定まらず、延々と評議を行っていたことが有名です。(小田原評定)
また、氏政の弟氏規は、豊臣秀吉に韮山城(にらやまじょう)で戦い、徳川家康の説得で開城、降伏し小田原城に籠城していた氏政・氏直に降伏を勧める役を担います。
最終的には豊臣氏に降伏。氏政は切腹、氏直は高野山に蟄居(ちっきょ)を命じられますが、天然痘にかかり30歳という若さで亡くなります。
小田原城開城後、氏規も高野山の蟄居し、その後狭山城主に命じられました。
氏規の息子氏盛が氏直の養子に入り、初代狭山藩主になり、北条氏は狭山藩主として家系は続いていくのです。

北条氏康の子孫も有名?

氏康の子孫でもっとも有名なのは忠臣蔵の悪役、吉良上野介です。
吉良上野介の父、義冬の母及び父方の祖母が今川家に嫁いだ早川殿の子孫で、吉良上野介の父の母は、武田信玄の系統の子孫でもあり、今川氏真と北条氏康の娘・早川殿の玄孫(やしゃご)になります。
また、北条家は狭山藩主として江戸時代を生き抜いてきました。
その家系は、明治維新後も続き、12代狭山藩主北条氏恭(ほうじょううじゆき)は子爵に列せられました。
また氏直には氏次という子がいたという説があり、その子が仙台藩士となり桑島に改姓して存続したといいます。
子孫が幕末の勤皇志士桑島孟(きんのうししくわなたけし)です。
【勤皇志士とは、天皇に尽くす・政治的運動を意味します】

北条氏康に関するQ&A

北条氏康の家紋・家臣・最期と、意外に知られていないことがあります。
では、具体的な疑問とは

  • 北条氏康の家紋は
  • 風魔小太郎は家臣だったのか
  • 北条氏康の最期は?

この3つを解説いたします。

北条氏康の家紋は

北条家の家紋は「三つ鱗(みつうろこ)」です。
この「三つ鱗」は執権北条氏が使用しており、後北条氏は模倣にしており、北条姓を名乗った2代目氏綱の代から使用しています。
執権北条氏の「三つ鱗」は大蛇または竜の鱗で、北条政子の父時政が江の島で子孫繁栄の祈願をした夜に、女性が現れ「あなたの子孫は日本を支配する」などと言い残し、大蛇となって3枚の鱗を残していったことが由来となっているようです。
執権北条氏と後北条家では若干の違いがあり、執権北条氏は白い正三角形を組み合わせた紋で、後北条氏のものは黒い二等辺三角形を組み合わせた紋になります。
ただし、厳密に二等辺三角形と定められていたかは不明です。

風魔小太郎は家臣だったのか

風魔小太郎は、戦国シミュレーションゲームの登場人物とも知られ、戦国忍者最強と言われています。
後北条氏について書かれた、1641年の最古の版本がある仮名草紙・軍記物語「北条五代記」では、氏直・氏政に仕えた乱波(らっぱ)隊で、山賊、海賊、強盗、窃盗の「四盗」に近い存在だったようです。
風魔一族は、乗馬技術を高く評価した早雲が配下に迎え、北条家に仕えたのが始まりとなり、代々、北条家に仕え、その風魔の5代目が風魔小太郎ということになります。
闇夜にまぎれて敵陣に奇襲をかけ、敵を混乱に陥れることにたけた武力集団で、諜報収集として働く忍びとは異なった働きをしているようです。
風魔小太郎は、北条家に仕えた家臣で、忍びとは異なる奇襲を得意とした武力集団の党首だったのです。

北条氏康の最期は?

1570年8月頃、氏康は脳血管の障害を患っていたようです。
そのためろれつも回らず、しゃべることができず、意思の疎通がままならい状態まで、後遺症があり、、侵攻してきた武田信玄のことさえ把握ができないほどでした。
そして、1571年10月3日小田原城で57歳で亡くなったとされています。

まとめ:北条氏康の家系は戦国時代を代表する大大名家であった

北条氏康の家系は戦国時代を代表する大名家でした。
初代早雲は、戦乱の世の中を上手く渡っていき、戦国大名までになります。
今川氏・上杉氏・武田氏・徳川家と戦い、時には同盟を組んだりしながら関東に勢力を伸ばしましたが、豊臣秀吉に敗れ、五代目の北条氏直の時代で、戦国大名家としては、滅亡という結果になりました。
数ある有名大名の陰に隠れがちですが、間違いなく実力のある戦国大名一家と言えるでしょう。